天井桟敷日記

「天井桟敷からの風景」姉妹版

天界から現世へ、そして何処へ

阪大ワンコイン佐藤卓史予習→久しぶりにワルトシュタイン@バレンボイムを聴く。激情の音楽だ。聴いてて克服なる言葉を思った。そうなんだよな、5番交響曲運命も克服。そこで、ベートーベンレッテル方程式を訂正。

ベートーベン=形式美+自由平等博愛+克服+諦観

諦観を付加したのは後期弦四やPソナタの清澄な世界を忘れてはいけないから。
そして、以前にベートーベンを自己主張の音楽家としたのは余りにも可哀想、人生論音楽家としよう。いや、これも人生論→演歌を連想させるので現世の音楽家としよう。これに対してバッハ、モーツァルトは天界の音楽とレッテル貼りすることにしよう。

バロックモーツァルトまでは天界の音楽、ベートーベンが現れて人生論に転回、以降ロマン派→ブラームスシューマンワーグナーその他は現世の音楽を追求。行き詰ってドビュッシー、新ウイーン学派、ストラヴィンスキー→現代音楽は現世を乗り越えようとしているから難解なのだ。音楽を現世地上に矮小化するなと考えれば現代音楽も聴きやすくなるかも。

これは絵画が宗教画→リアリズム→印象派→抽象と変化して来たのと重ねて見ることができるな。
天界→現世リアリズム→空想・抽象等、音の自律的造形へ。
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唯識とインマヌエル

『いとも慕わしいイエス、わが焦がれ求める君よ』BWV32カンタータBCJ巻42
我が全カンタータ登頂プロジェクト、ぼちぼち遅々と信仰中なれど、今朝は昨日のプティットバンド 世俗カンタータBMV204われ心満ちたりライブの空気感が記憶に新しいのでひときわ心に沁みる思い。
されど、対訳歌詞を見るとやっぱり抵抗あり。

愛しまつるイエスよ、私の望みよ、
教えて下さい、どこにおられるのですか。 あなたを見失ってしまって、
もうお会いできないのでしょうか。
ああ、私の宝よ、私を喜ばせて下さい、
あなたをしっかりと抱きしめさせて下さい
http://okimideiko.blog.fc2.com/blog-entry-1185.html

おいおい、俺はそこまでイエスを愛せないよ、二千年も前のパレスチナに生きた人間なんか知らんよ。
まあでも先日、こんな屁理屈でこの問題を捩じ伏せようとしたのだが。

そうか、人格神としての神なんかこれっぽっちも信じたくないが、巡り合わせ→運命→神なるベクトルはありそうだ。つまり、神=運命=巡り合わせと捉えたらバッハの宗教曲も抵抗なく聴けると納得した次第。
http://doyoubi.hateblo.jp/entry/2017/10/07/055127

やっぱり納得してなかったんだなあ。
そこで、今朝は唯識=この世で出会う全ては私の心の中の出来事
を動員。イエスが二千年前に生きた事は歴史的事実、しかし唯識に従えば大切なのは歴史的事実ではなく心的事実、心の中の事実。

つまり、歴史的イエスではなく心的イエスをこのカンタータで歌っている、私の愛するイエスは私の心の中のイエスのことだと思えば良いんだ。

それが証拠にキリスト教でも、インマヌエル「神はわれらと共に」なる考え方がある。神は外にあるのではなく私の心の中にいるのだ。

鰯の頭も信心から。信仰は信心、心的事実を信じる事なんだなあ。さて、おまえは心の中にイエスや釈迦を作れるか。f:id:doyoubi92724169:20171010061644j:image

プティットバンド最前列われ心満ちたり

f:id:doyoubi92724169:20171009180430j:imageS席5千円最前列22番に着席←東京公演はS席7500円みたい、シンフォニーホールは二階席売らずこの値段、気に入った。
管弦楽組曲 第3番 ニ長調 BWV1068 ※弦楽のみで演奏
「音楽の捧げ物」BWV1079より トリオ・ソナタ
チェンバロ協奏曲 第5番 ヘ短調 BWV1056
カンタータ 第204番 満足について「われ心満ちたり」BWV204

BMV1068は弦楽四重奏チェンバロ、しかも弦は古楽器→ガット弦、顎当てなし。ライブだとガット弦いぶし銀がよくわかる、抑えた響き、最前列でよかったあ。弦楽は対抗配置→右端の2ndVnが1stよりも大きく聞こえるのが面白い、演説者はサラ・クイケン、ジギスヴァルトの妹か娘か→休憩中にネット検索しよう。
続いてBWV1079トリオソナタ、これも最小構成、通奏低音チェロ+チェンバロに加えてジギスヴァルト、そしてバロックフルート。後方席までバロックフルートの音が届くか心配してもた。
そしてBMV1056、今度は1st2nd、Va、チェンバロ、Vcと並ぶ。チェンバロをたっぷり最前列聴楽。

ここで休憩。ネット検索したらサラはジギスヴァルトの娘、そして母親はVa、なんとプティットバンドはジギスヴァルトファミリーバンドだった。

後半はBMV204カンタータ、ブルードレスの若いソプラノ+バンド全員←オーボエ2、フルート1合計9人。対訳歌詞がプログラムに同封してあったので音を立てないように注意しつつ最前列なのでステージ照明お陰で見ながら聴いた。2曲目アリア日本語歌詞は

平穏と己への満足は
現世で最大の宝
充足している者は、充足していない
地上のものを楽しむ者は、
貧しい心の持ち主

音楽は「地上のもの」に入っていないと俺は思う、バッハもそう考えたろう。音楽とりわけバッハ、モーツァルトの効用は生きながらにしてあの世を見せてくれるのだから。
http://doyoubi.hateblo.jp/entry/2017/10/04/063328

ヴァイオリン:シギスヴァルト・クイケン、サラ・クイケン
ヴィオラ:マルレーン・ティアーズ
チェロ:ロナン・ケルノア
フルート:アンネ・プストラウク
オーボエヴァンシャンヌ・ボウドユイン、オフェル・フレンケル
チェンバロ:バンジャマン・アラール
ソプラノ:アンナ・グシュヴェンド

モーツァルト=形式美+詠嘆

今朝の聴楽は
ペライア フランス組曲3番ロ短調BWV814
モザイクQ16番変ホ長調KV428
そして今は今日のライブ→プティットバンド@シンフォニーホール、音楽の捧げもの等。

シンフォニーホールと言えば先日の大失態→五嶋みどりライブ遅刻事件。過ちは繰り返すまじ→12時前には家を出てシンフォニーホール駐車場、近くの上等カレー、13時開場着席なる段取りだ。

さて、モーツァルト。昨日の記事で「思想=悲しみ」なる消化不良レッテルを貼ったが、今朝はそれを思い直した。昨日書いた小松政夫ギャグエピソードに「この世のしがらみの悲しみ」と名づけることにした。そしてまた連想は「世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」山上憶良に及び、詠嘆なる言葉を得た。そこで、方程式にまとめると
モーツァルト=形式美+詠嘆
バッハ=形式美+信仰
となった。今朝のモーツァルトKV428には長調のため、詠嘆は殆ど無かったが。

ついでにベートーベン方程式も。
ベートーベン=形式美+自由平等博愛

ところで総選挙、我が安倍宰相は北朝鮮なる国難に際して「国民の生命、財産を守る」と演説しているが「自由を守る」とは語っていないという指摘記事をネットで見かけたなあ。USAでは自由が落ちていると共和党銃規制反対派などから大クレームになるのだが。f:id:doyoubi92724169:20171009061318j:image

思想=悲しみ

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今朝もバッハ→モーツァルト@パターン。バッハはペライアフランス組曲2番ハ短調BWV813、モーツァルト弦楽四重奏曲15番ニ短調KV421モザイクQ。

ペライアはグールドと違ってクセがない、純粋。この人のバッハを聴き込んでみようとまずはフランス組曲
モザイクQは最近テレビで見てガット弦、渋そうと思いSpotify探したら14番からの全集発見。ガット弦とスティール弦の違いを聞き分ける鋭敏な耳ではないけれど。

で、感想だが、バッハよりモーツァルトのスケールの大きさを感じてしまった。モーツァルトの弦四、きちんと聴いたことがあまりなかった、この曲も聞き覚えはあるが調性、番号を意識して聴くのは初めて多分。

ベートーベンには自己主張あり、バッハモーツァルトには自己主張なしと最近、言っているのだが、このKV421には思想がある。悲しみという思想がある。それが何を意味しているか、言葉は不要。モーツァルトは音楽で伝えたかった思いがあると感じた次第。これ以上言葉で伝えるのは面倒だからこの名曲のYouTubeリンクを貼っておく。
https://youtu.be/WI3VdZK68K0

ではバッハの音楽には思想はないのか→そんなことはない、ルター派信仰という思想があるし、彼の世俗曲にも神の栄光なるバックボーンを感じる。これに対してモーツァルトの音楽の思想=悲しみは神に寄りかかっているようなものではなさそうだ。

ということで今朝の駄文はバッハとモーツァルト、その音楽の思想の違いであった。思想といってもそんな大げさなものではない。たまたま今朝、ネットで拾った小松政夫インタビューからコピペ、

そのギャグ、小松さん流に言えば「はやり言葉」の多くにモデルがいたという。付き人だった当時に、コントで役をもらうきっかけになった「知らないっ、知らないっ、知らないっ」のフレーズは、自動車ディーラー勤務時代の課長が、職場でもらした言葉がヒントになった。部下である小松さんを怒鳴りつけていた課長が、逆に上司にしかられてしまったシーンから生まれたのだという。
https://mainichi.jp/articles/20171006/dde/012/070/026000c

小松政夫が上司に感じた思い、それが思想=悲しみである。「植木等とのぼせもん」毎回楽しんでいる。
http://www.nhk.or.jp/dodra/nobosemon/

自力と神

f:id:doyoubi92724169:20171007055059j:imageチャップリン「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見ると喜劇である」がこのところ大層お気に入り、ブログにも
悲劇と喜劇
http://doyoubi.hateblo.jp/entry/2017/10/03/073519
近景と遠景
http://doyoubi.hateblo.jp/entry/2017/10/04/063328
と、二度、ネタにしたが今朝もネタにしよう。

カンタータBCJ巻42の一曲目は BWV72「すべてただ神の御心のままに」、冒頭合唱は

すべては神のみ心のままに、
楽しい時も悲しみの時も、
良い時も悪い時も。
神のみ心は私を平穏にして下さる、
曇りの日にも晴れの日にも。
すべては神のみ心のままに。
これこそ私の合い言葉。
http://okimideiko.blog.fc2.com/blog-entry-442.html?sp

教会カンタータだから当たり前なのだが、また神かよと少々ゲンナリ。しかし気をとりなおして聴いていると、俺も最近は「全ては巡り合わせ」などと言っているなあと気づいた。
そうか、人格神としての神なんかこれっぽっちも信じたくないが、巡り合わせ→運命→神なるベクトルはありそうだ。つまり、神=運命=巡り合わせと捉えたらバッハの宗教曲も抵抗なく聴けると納得した次第。

そこでチャップリン名言を言い換えてみると、「人生は近くで見ると自力だが、遠くから見ると運命である」。

人生=自力(損得、好き嫌い、善悪、理非)+神(苦楽、美醜、虚実)
https://twitter.com/doyoubi/status/859933905821982720

今朝もブログを書けてシアワセなり。あの世からこの世を眺める夢心地。

 

自己主張して碌なことはなかった

バッハを聴いてモーツァルト、これが最近の悦楽パターン。今朝の例で言うと、プティットバンド@シンフォニーホール予習→音楽の捧げものからトリオソナタの後はモーツァルトVnソナタ43番イ短調KV526。

バッハの豊穣なポリフォニーから一転してモーツァルトの予定調和形式美ホモフォニー。ぱーっと視界が開けた気分になるのが心地よい。しかも後のベートーベンと違いモーツァルトには熱情→具体的喜怒哀楽、そして自己主張がない。これまでの社会労働経験で自己主張して碌なことはなかったのに、ようやく自己主張しない音楽の味が沁みるようになったのだ。長かったなあ、実人生の反動→音楽にヒロイズムやロマンを求めた時間は終わったのだ。自己主張しないバッハ、音楽を神への捧げものとしたバッハのおかげだ。

ところで、バッハの豊穣なポリフォニーは何故絶えてしまったのだろうか。18世紀後半に台頭した啓蒙思想市民社会がその理由だと一般にされている。「シャイベのバッハ批判とバロックの終焉」なる記事からコピペ。

シャイベはその論評の中で、バッハの音楽は複雑すぎて自然な快適さに欠けていると断じています。ここで「複雑すぎ」とは、フーガをはじめとするバッハの緻密な対位法やバロック音楽を特徴付けている重々しい通奏低音のことを表しているとすれば、それに対する「自然な快適さ」こそが、新しい時代の音楽のあり様を表しているといえるでしょう。
http://ongakusitanbou.seesaa.net/article/242355095.html

要するにマーケットが変わったのだ。王侯貴族から市民へとマーケットが転換、バッハの複座精妙音楽は当時の市民に受け入れられなかった。しかし、バッハは蘇った。俺みたいな無知蒙昧B級市民でもバッハを聴く時代になった。啓蒙思想も自由平等博愛もいいけれど、自己主張全く不要、ひっそりとグールドを聴く毎日日曜のおかげなり。

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