天井桟敷日記

「天井桟敷からの風景」姉妹版

音の向こう側へ

レオンハルトの素晴らしさを俺も感じたいと今朝もパルティータ聴き比べ→3番イ短調 BWV827と4番ニ長調
コープマンを聴いてレオンハルト、次はその逆を聴いてもチェンバロの音の違いはわかってもレオンハルトの素晴らしさはやって来ない←当たり前だよそんなの、もっともっと聴き込まないと、ましてや自分の耳の不確かさ、散漫ぶりを思え。


そこで聴き慣れたグールド。これは感じる、音と音の間から音の向こう側に入り込んでグールドに触れたような気になる。素晴らしさを感じるということはまずは音の向こう側に入り込むことなんだなあと諒解した。
では鈴木雅明はどうか、とパルティータ。そしたら自己暗示もあるかもしれないがしっとりしたものを感じた、音の向こう側に入り込めた気がちょっぴりした。

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思えば、世の中の出来事は全ては自分の心の中の出来事に過ぎない。客観なるものは存在せず全ては主観。自分の心というフィルターを通してのみ世界や他者や事物に接しているのだから。
だから素晴らしさを感じるということは実は自分の心が変わるということなのだ。
しかしまあレオンハルトまではまだまだ遠いなあ。そもそもチェンバロの装飾的な音に抵抗があるのだ。
でもいつか鈴木雅明、コープマンがレオンハルトの音の向こう側に導いてくれるかもと明日もパルティータ聴き比べ。