天井桟敷日記

「天井桟敷からの風景」姉妹版

最後の審判と旅するドイツ語

カンタータBCJ巻15復習
Disc15
ライプツィヒ時代のカンタータ1723年②
第40番『神の子が現れたのは』BWV40
第60番『おお、永遠、汝、雷の言葉よ』BWV60
第70番『目覚めよ、祈れ、祈れ、目覚めよ』BWV70
第90番『おぞましい最期がおまえ達をひきさらう』BWV90
野々下由香里(S) ロビン・ブレイズ(C-T) ゲルト・テュルク(T) 浦野智行(Bs)
録音:2000年9月

この巻は力作揃い。BWV60は懐疑と信仰の弁証法、BWV70はバッハの最後の審判。歌詞対訳を見ながら聴いていて結局、信ずる者は来世にて救われる→バッハは来世を信じていたろうなと思った。
そういえば、マラ8千人もそうだ。死をあれだけ恐れたマーラー、自身で最高傑作とした8番で聖母マリアによる天上での救済を描く境地に達した。

困ったなあ、死後の来世を信じられない俺はどうしたらええんや。イエスは「明日を思い煩うな」と教えているのにバッハもマーラーも来世や最後の審判や救済を描く。俺は音楽を楽しみたいだけなのに。

まあしかし焦ることはない。死→最後の審判までまだたっぷり時間はある、多分。ここは、Eテレ「旅するドイツ語」を録画勉強して更にバッハ、マーラーを愉しめるようにしよう。以下はマラ8千人のフィナーレ「神秘の合唱」対訳。音楽は、原語の言葉を聴き取れば更に深く味わえると感じつつあり。
CHORUS MYSTICUS:

Alles Vergängliche

Ist nur ein Gleichnis;

Das Unzulängliche,

Hier wird's Ereignis;

Das Unbeschreibliche,

Hier ist's getan;

Das Ewig-Weibliche

Zieht uns hinan.

神秘の合唱

--

すべて過ぎ去りゆくものは

比喩にすぎない。

到達できないものが

ここに生起し、

名状しがたきものが

ここに成しとげられた。

永遠に女性的なもの、

我らを引きて昇らしむ。

http://d.hatena.ne.jp/wagnerianchan/touch/20110601/1306931163f:id:doyoubi92724169:20170329052828j:image

冨田一樹凱旋コンサート予習→持続と変化

f:id:doyoubi92724169:20170328050808j:image

また、いずみポールでオルガンを聴く→冨田一樹凱旋コンサート。前回のバッハ オルガン全曲巻10はバッハ初期の曲だったせいか耳に馴染みにくかったが、今回は馴染みやすいものが多い。

D.ブクステフーデ:プレリュード ト短調 BuxWV149
G.ベーム:《天にいますわれらの父よ》
J.パッヘルベル:《われらが神は堅き砦》
J.S.バッハ:《われら皆一なる神を信ず》 BWV680
      《装いせよ、おお、魂よ》 BWV654
      トッカータとフーガ ヘ長調 BWV540
      プレリュードとフーガ ハ短調 BWV546
      《おお人よ、汝の大いなる罪を嘆け》BWV622
      《深き淵より、われ汝に呼ばわる》BWV686
      《おお、神の小羊、罪なくして》BWV656
      パッサカリア ハ短調 BWV582
http://www.izumihall.jp/schedule/concert.html?cid=1405

オルガンライブ、これで3回目。オルガンは打楽器ピアノと異なり吹奏楽器→音が持続する。音の持続と変化という2要素を頭に置いて、この音が持続している一方で変化する音を聴く、ポリフォニーの楽しみ方がわかってきたような気がする。

 

音楽における主観と客観

カンタータBCJ巻16に突入。
Disc16
ライプツィヒ時代のカンタータ1723年③
第194番『こよなく待ち焦がれた喜びの祝いよ』BWV194 
第119番『主をほめよ、エルサレム』BWV119
野々下由香里,緋田芳江(S) キルステン・ソレク=アヴェラ(A) 櫻田亮(T) ヨッヘン・クプファー(Br) ペーター・コーイ (Bs)
録音:1999年10月、2000年11月

昨日の広上淳一京響千人の余韻が残っているので、バッハとマーラーの違いを考えてしもた。マーラーは主観的、バッハは客観的というのが第一感だが、音楽における主観客観とは何か。

主観は内容、客観は形式。形式よりも内容を重要視するのが主観的音楽、その逆が客観的音楽とか色々考えたのだが、結局、個人の心情感情を訴求する音楽が主観的音楽、個人ではなく神やその他の客観を賛美するのが客観的音楽ということに落ち着いた。

なるほど、これならバッハは客観、マーラーは主観と言えそうだ。でも、それなら主観客観などと難しい言葉を持ち出さなくてもマーラーは感情的音楽と片付ければいいではないか。

いや、それではマーラーが余りにも可哀想。千人交響曲だって神や聖母を持ち出して賛美したりしているし、理性を働かせてあれだけの大作を創造したのだから感情的と形容するのは失礼だ。

また、感情の反対語は理性だからバッハを理性的音楽とするのも、マタイ受難曲カンタータで胸に迫る様々を理性的とするのも的外れだ。

 

ということでなんだか訳がわからんようになってもた。昨日、京都コンサートホールの隣の府立植物園で撮った三椏の花でも眺めよう。自然の中に感情も理性もあり、自然こそ神=客観なり。f:id:doyoubi92724169:20170326062818j:image

パーヴォN響千人、感動のラストだが

今日は広上淳一京響千人ライブ。先日のリマインド予習
http://doyoubi.hateblo.jp/entry/2017/03/22/054733
で第2部の構成、歌詞を一応理解したので、リマインド仕上げはパーヴォN響千人。

パーヴォの指揮を云々する能力は俺にはないが、まとまった演奏、感動のラスト。しかしどことなく作りものめいた気分が残った←演奏のせいではなく曲のせいなのだ、不倫していた妻アルマに必死にすがりつく心ををアルマに献げた音楽なのだ。

そんな事情は置いて音楽そのものを楽しめばよいのだが、さて、京都コンサートホール終演時にどんな気分でいるだろうか、頼んまっせ、広上はん。f:id:doyoubi92724169:20170325054232j:image

 

我が心のよくて殺さぬにはあらず

今朝はパーヴォN響千人を聴くつもりだったのに聴いているのはN響レジェンド→スターン。昨日、スターンはジムBGMのつもりが籠池喚問をらじるらじるダウンロードしてまで聞いたからだ。午後はテレビ録画を見てたなあ、あーあー、籠池の一日になってしもうた。

 「わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」 私の心がよいから私は人を殺さないのではない。縁がないから殺さないだけであって、縁が熟せば、人は百人でも千人でも殺すかもしれない。人は縁によってどのような行いをもしてしまう、そういう存在なのだ、と親鸞聖人は指摘されています。
http://www.higashihonganji.or.jp/sermon/radio/detail48_04.html

「魔がさす」という言葉があるが、人は自由意志で判断、行動しているようで時には魔に振り回される。魔がいい方向にさせば名演奏、悪ければ悪事。いま、安倍夫人は何を思っているだろうか。あなたを舞い上がらせたもの、それが魔=神なのだ。

- 名バイオリニスト アイザック・スターン -
岡本由季
【解説】池辺晋一郎

「バイオリン協奏曲 ニ長調 作品61」 ベートーベン作曲
(43分15秒)
(バイオリン)アイザック・スターン
管弦楽NHK交響楽団
(指揮)ジャン・マルティノン

~東京・日比谷公会堂で収録~
(1953年10月28日)

「バイオリン協奏曲 第3番 ト長調 K.216 から
第3楽章」モーツァルト作曲
(6分25秒)
(バイオリン)アイザック・スターン
管弦楽NHK交響楽団
(指揮)クルト・ウェス

~東京・日比谷公会堂で収録~
(1953年9月24日)

「バイオリン協奏曲 ニ長調 作品77」 ブラームス作曲
(39分05秒)
(バイオリン)アイザック・スターン
管弦楽NHK交響楽団
(指揮)外山雄三
東京文化会館で収録~
(1967年10月24日)f:id:doyoubi92724169:20170324060913j:image

バッハに始まる一日

f:id:doyoubi92724169:20170323063631j:image今週のFM古楽の楽しみは磯山雅の担当、特集「宗教改革とルターにちなんだバッハのカンタータ」。磯山さんのお顔は先日、いずみホールで接して来たし、オルガンの響きもライブ余韻が残っているので親しみ深く録音を聴く。
曲目はオルガン2曲、カンタータ2曲、最後はスイングルシンガーズが歌うコラール「神はわがやぐら という味な終わり方。このコラール、多摩の合唱団で歌ったなぁ。ルター作曲と聞いてびっくりしたのも思い出だ。

バッハに始まる一日、今日は予定なし。ジムでウォーク4キロ、自転車4キロ、ちょっぴり筋トレと泳ぎといういつものメニューをこなす。

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古楽の楽しみ
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3月20日月曜


午前6時00分

午前6時55分
古楽の楽しみ - 宗教改革とルターにちなんだバッハのカンタータ -(1)
礒山雅「前奏曲とフーガホ短調BWV548」バッハ:作曲,(オルガン)モード・グラットンほか

楽曲

*
前奏曲とフーガ ホ短調 BWV548」
バッハ:作曲
(オルガン)モード・グラットン
(13分21秒)
<PHI LPH021>


カンタータ 第79番“主なる神は日なり、たてなり” BWV79」
バッハ:作曲
ボーイ・ソプラノ)デトレフ・ブラチュケ、(カウンターテナー)ポール・エスウッド、(バス)マックス・ファン・エグモント、(合唱)ハノーバー少年合唱団、(合唱)コレギウム・ヴォカーレ、(合奏)レオンハルト合奏団、(指揮)グスタフ・レオンハルト
(15分35秒)
<TELDEC 0745099176525>


カンタータ 第192番“いざやもろびと、神に感謝せよ” BWV192」
バッハ:作曲
(ソプラノ)ジモーネ・ケルメス、(バス)マティアス・ヴァイヒェルト、(合唱)ライプチヒ聖トーマス教会聖歌隊、(合奏)ドイツ・カンマーフィルハーモニーブレーメン、(指揮)ゲオルク・クリストフ・ビラー
(12分19秒)
<Bachfest Leipzig BACHFEST2004>


「コラール“神はわがやぐら” BWV720」
バッハ:作曲
(オルガン)トン・コープマン
(3分39秒)
<TELDEC WPCS-10405/6>


「コラール“神はわがやぐら” BWV302」
バッハ:作曲
(合唱)スイングル・シンガーズ
(1分12秒)
<Swingle Singers SWING CD5>
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マラ8千人、生を思い切る覚悟のための音楽

f:id:doyoubi92724169:20170322054716j:image

今週末広上京響千人に向けてのリマインド。
無難なところでヤンソンスを聴き始める。
第一部は精霊がどうしたこうした←言わば前奏曲なのでとりあえず聴き流したが、問題は第二部。

歌詞対訳を見つつ聴いても意味理解不十分。そうなんだよな、だからこの曲、いつ聴いても雰囲気的理解→クライマックスの栄光の聖母登場〜神秘の合唱〜フィナーレ←に止まっている。

それではならじと今回は読んでもいない、未来永劫読みもしないファウストを手っ取り早くネット検索。

しかし『ファウスト』を実際読んでみてこれだけはわかりました。マーラー交響曲第八番」第二部を聞く上でこの本を全部読む必要はありませんが、ストーリーだけでも知ると音楽が更に楽しめるということを。この曲は交響曲といっても大部分が声楽で占める「声楽作品」です。ということは歌詞の意味がわからないと百パーセント楽しめない、という当たり前のことに気が付くわけです。再三《千人の交響曲》はいいぞ!と勧めてきたわりには、私自身歌詞を断片的に理解していただけ。きわめておおざっぱに楽しんできただけでした。
http://ongakuyawa.net/musiker21/mahler01.html

この記事のお陰でファウスト理解した気分になって、ヤンソンス最初から聞き直し始めたが、ショルティ名盤らしいので第二部はショルティに切り換え→断然ダンチ、気迫鬼気入魂名演奏。

歌詞対訳も
http://d.hatena.ne.jp/wagnerianchan/touch/20110601/1306931163
が解説付きでためになる。第二部がどんな過程を経て栄光の聖母登場に至るかを俺なりに理解出来た。

我が好きやねん復活は天上永遠への憧れ音楽、マラ8千人は天上永遠達成した姿の描写音楽。

愚者は月をさす指を見るが、賢者は月を見る。愚者の俺には月は見えぬ、月=天上、神、永遠は見えぬ。だから、月をさす指=マーラーを聴く。マーラーは生を思い切る覚悟のための音楽と思いけり。