天井桟敷日記

「天井桟敷からの風景」姉妹版

BWV1002 主題と変奏

粉瘤を口実にサボっていたジムを昨日、6日ぶりに再開。昼はロイホ15%引き連続3日目、イオンに行ってチャージその他で千五百円get。帰宅して無伴奏聴き比べ2曲目パルティータ1番ロ短調BWV1002 PL作成。

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名曲解説ライブラリーによると、この曲はアルマンドクーラントサラバンド、ブーレにそれぞれドゥーブル←変奏曲が付いて合計8楽章構成←おお、こんな事も知らなんだ。

フーガの無いのが淋しいな、平坦な音楽やなどと思いながら聴き始めたがどっこい重量感あり。うっかり聴いてると変奏が始まったのを聴き逃す。各主題がどのように変奏されるのかを愉しむ曲と観念したり。

 

変奏と言えばゴルトベルク変奏曲を人生に例える人がいたなあ。アリアに始まって30の変奏があって最後はアリアに戻る。なかなか面白い例えだが実人生はアリアに戻らず変奏されて衰えたり突然に途絶えたりして終わるもの。


そこで、昨日の朝日「それぞれの終楽章」藤井理恵最終回からコピペ。


年を取ると聞こえなくなった、歩けなくなったと不満が出ます。それをマイナスと捉えるのは人の価値観です。そうではなく、自分で得たものではない聴力や歩行能力をちょっとお返しする。いただいて預かったものを手放し、次々に返していって、最後は魂一つになって、神様のもとに帰ってゆくと考えてみるのです。
 「どうすれば自分の死を受けいれることができますか」とよく尋ねられます。死の受容は、人生が「与えられたものである」と了解していくときに可能になっていくのでしょう。与えられた命をもって生まれて、生きて、死んでゆく。そのプロセスの中で死を終点と捉えれば、「自分が無くなってしまう」となりますが、帰るのであれば、その先も続きます。私はそう信じ、ここに希望を見いだしています。
https://www.asahi.com/articles/DA3S14175041.html
命は自分のものではなくて与えられたもの。だから、衰えは奪われることではなくお返しすること。最後は魂ひとつで主のもとへ、とはなかなか上手い理屈ではある。
人生、何が主題であるかわからないままに変奏されていつか終わる。病を得たり死ぬことに納得する理屈が此処にあったなあ、ゴッホさん。

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