天井桟敷日記

「天井桟敷からの風景」姉妹版

齋藤友香理/セブンルール

テレビっ子はこのところ新聞テレビ欄を毎日チェックするようになって一昨日もこんな番組を見つけて録画予約→昨日観た。

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サラリーマンの父、専業主婦の母のもと、東京の下町で生まれ育った齋藤。4歳の時にピアノを始め、大学まで続けていたものの、一人で演奏する寂しさを感じていた。そんな彼女は高校3年生の頃に初めて指揮をしたことで、指揮者の魅力を知ったという。 
https://www.ktv.jp/7rules/program/200218.html
36歳、指揮者としてはまだ若手だそうだがちょっと出遅れてる感もあり。上のリンクからコピペ。


コンクールで賞を取っても、オーディションを受けては落選の日々、彼女はここ一年以上、ヨーロッパでの指揮の仕事を行えていなかった。


でも生き生きした様子に感じるなあ。そんな彼女のセブンルールは


とにかく指揮→アンサンブルが好きなのだ。だから「リハーサルで完璧にしない」。そして「指揮以外では稼がない」と自分を縛って、いつの日にかブレーク向けて努力している。日本国内オケとの仕事はいくつかしているようだから機会があったら応援ライブしよう。

 

タンゲンテンフリューゲル

古楽の楽しみ「チェンバロ男子対談」で初めてその名を知った楽器。

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タンゲンテンフリューゲル(独:Tangentenflügel、英:Tangent piano)は、レーゲンスブルクのフランツ・ヤコブ・シュペート(Franz Jakob Späth、1714生)なる鍵盤楽器職人が、1750年頃に製作したのが最初とされております。その特徴は、ハンマーで叩くピアノ(いわゆるフォルテ・ピアノ)に若干相違して、タンジェントとよばれる薄い木片を突きあげて弦を打つ構造をもっているようです。

ピアノフォルテチェンバロの音がごちゃ混ぜになったような感あり。検索発見した他の記事では


かんじんの音はというと、チェンバロに近く、ただチェンバロのように弦をはじく構造でないため、もっと太い音がする。速いパッセージなどでは、よくピアノの音を表現するのに「玉を転がすような」ということがあるが、それをもじっていえば「小石を転がすような」──つまりもうすこし庶民的でくすんだ音がする。バーゲンセールのくじ引きの「がらがら」(あれ、正式にはなんていうのでしょう?)みたいな感じ。


ピアノが生まれるまでは様々な試みがなされていたんだなあと改めて思った次第。


FB哲学サロンの話題のお陰で久しぶりにウィトゲンシュタインを思い出した。言語も楽器もその意味は使用。愛が言葉も音楽も齎らすのである。

特別公開アザラシヴィリ無言歌

お気に入りのラジオ番組「きらクラ」が終了する。


独特の感性を持つタレントふかわりょうと、気鋭のチェリスト遠藤真理が繰り広げるお気楽クラシック音楽バラエティー・ラジオ。極上の音楽とまったりトーク、さまざまな企画コーナーによって、気楽にクラシック音楽に触れることのできるキラキラした日曜の午後をお届けします。
FM 毎週日曜 午後2時 | 再放送 毎週月曜 午前7時25分

リアルタイムでは聞いてなくて、録音→車載運転BGMなのだが、ふかわりょうが一昨日さらっとアナウンスしたようだ。


この番組、ふかわりょう×遠藤真里トークも面白かったが、俺にとっては知られざる名曲との出会いの番組であった。第一はペルト「鏡の中の鏡」、そして印象深い記憶はアザラシヴィリ「無言歌」。我が過去日記からコピペ。


介護していた父親を10日前に亡くしたというリスナーからのこの曲の再放送リクエスト。介護の合間にきらクラでこの曲を聴いてさめざめと泣いたそうだ。父親を亡くした今、もう一度聴いて泣くことで徐々に立ち直りたいとのこと。いつもは饒舌なふかわりょうがこのメッセージを淡々と読み上げて曲がかかる→なるほど名曲だ、リクエストしたリスナーの気持ちが伝わってくる。
帰宅してアップルミュージック、Spotifyを探したけれど見つからず、YouTubeにはあったが音質わるし。そこで放送録音からリスナーメッセージと曲を切り出した。

切り出してYouTubeに内密アップしたものを特別公開。


リスナーメッセージに続くアザラシヴィリ「無言歌」は格別。音楽のひろやかな力を思う。改めてこの番組に感謝。
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そして後継番組があってよかった。

今現在車載運転BGMは去年9月上旬を走行中。まだまだきらクラを聞き季節外れを楽しむのや。

スメタナ弦四 2番

スメタナ弦楽四重奏曲と言えば「わが生涯より」が有名だが、これは1番。2番もあって現在予習中、まるで聴いたことがないなあと思いつつ。

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一方、1882年から翌83年に作曲された弦楽四重奏曲第2番は自由な形式の中に激しい衝動と悲愴感に満ちたドラマチックな作品です。

Wikipediaにはこんな解説が。
作曲当時のスメタナは、重い精神障害にも見舞われていたため、すでに伝統的な楽曲構成をとることは出来なくなっていたが、それでも自由な形式の中に激しい表現衝動と悲愴で真摯な内容を封じ込めることに成功した。その意味で表現主義音楽の先駆と呼ぶことができ、実際にシェーンベルクは、この作品に啓発されたことを認めたという。
スメタナ自身、第1楽章作曲時に友人に宛てた手紙で、


第1楽章の構成については、自分で大いに疑問を持っています。大変特異な形式のもので、それを把握することは難しい。楽章全体に精神錯乱の感じがいきわたり、演奏者にとってはすこぶる扱いにくいものになりそうです(原文ママ)[1]。


と述べている。

この解説が先入観を持たせてくれたせいか、なかなかの難物なり。何度も寝落ちしながらそれでも聴いている。人生はご縁、こんな機会でもないと親しむことはなかったろう。
スメタナ弦楽四重奏曲 第2番 ニ短調
シューマン弦楽四重奏曲 第2番 ヘ長調 作品41-2
ベートーヴェン弦楽四重奏曲 第15番 イ短調 作品132

ドビュッシーは非人情風景画家

ドビュッシー のバイオリンソナタを聴いていて卒然と了解した。
これはドビュッシー の心や感情を表現した音楽ではない。彼はシューマンブラームスなどロマン派と異なり音楽で己の気持ちを表現しようとはしていない。言わば彼は非人情風景画家である。
絵で言えば岸田劉生

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画家岸田劉正は,大正3年(1914)から 5年にかけて代々木に住んでいた。
当時近所であったこの坂を描いた。
これが大正4年発表の「切り通しの写生」(重要文化財)である。

だからスラットキンのこの言葉は誤りだ。


音楽は感情を表現し共有するための手段に止まらない。音楽は音による建築、絵でもある。それが証拠に例えばバッハ 平均律クラヴィーア曲集にバッハの感情表現がかけらでもあるるか。だからバッハもドビュッシー も絵を眺めるように聴くべきだ。

そうか、ドビュッシー に感情表現を聴こうとしていたから難解やったんやあ。

コヌノヴァ×クオクマン京響

昨日は京響ライブ



スペイン交響曲は正直言って好きな曲ではない。大仰な出だしでどんくさいなあと思ってしまうのだ。そんな先入観のせいかこの曲の初めてのライブ、昨夜もその印象が拭えずオケまでいつものP席、先頭列で雑に聞こえてしもた。
指揮とソリストも何かちぐはぐで、更にはこの曲、リズムが難しい、だから呼吸を合わせられないのだと思ってしまう始末だ。

アンコールは楽しかった。「エリーゼのために」のモダンな編曲V nデュオ、指揮者クオクマンの譜めくりも微笑ましい演出。
そして後半プロコフィエフ交響曲5番。クオクマン、前半とは打って変わって伸び伸びした暗譜指揮ぶり。実はこの曲もお気に入りショスタコ5番との対比で捉え難い曲、鈍臭いと永く思い込んでいたのだったが、昨夜のライブP席効果→打楽器迫力満喫。対ナチス戦の勝利を間近に「悲しい事は多々あったが終楽章宴会で盛り上がろう」と理解できた。単純に社会主義リアリズム&勝利万歳でないのはショスタコ5番と同様。よくぞこの曲、スターリンに叱られなくてよかった。因みにプロコフィエフスターリンと同年同月同日に逝去したのだった。
そして俺はオッチョコチョイ、お見送りしてくれたJjuviちゃんに言わずもがなの「プロコブラボー、スペインいまいち」と言うてもたがな。

帰宅してスペイン交響曲の反応検索→当然ながら俺のような先入観偏見見当たらず。お詫びにコヌノヴァのアルバムをSpotifyで見つけて聴いている。

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ライブは先入観と偏見を解いてくれる場所、そのご縁を十分に活かせなかった夜やった。


 

音楽を世界に連れ出そう

映画を見て非常に気に入ったのですぐに原作購入。

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ところが下巻の最初あたりで「神の数式」物理学フィーバーに踊ってしまい長く中断。数日前から再開して昨日読了。
映画もよかったけれど原作は登場人物の心理、音楽の描写が長けている←言語表現だから当然か。
そしてキーワードは「音楽を世界に連れ出す」。「蜜蜂と遠雷 音楽 連れ出す」検索でいくつか記事を読んで次の記事が最も的確だった。


塵くんの演奏中、もうひとりのコンテスタント、栄伝亜夜ちゃんとの間に、こんな会話(リアルではない)が展開されます。
 
「僕ね、ホフマン先生と約束したんだ。(中略)音楽を、世界に連れ出すって約束。(中略)今の世界は、いろんな音に溢れているけど、音楽は箱の中に閉じ込められている。本当は、昔は世界中が音楽で満ちていたのにって」
 
「ああ、分かるわ。自然の中から音楽を聞き取って書きとめていたのに、今は誰も自然の中に音楽を聞かなくなって、自分たちの耳の中に閉じ込めているのね。それが音楽だと思っているのよね」(これは亜夜ちゃん)
 
「そう。だから、閉じ込められた音楽を元いた場所に返そうって話してたの。」
 
塵くんは、ホフマン先生と野外で弾いてみたり、いろいろ試してみますが、どうやらそういうことでもなく、どうしたらいいのかわからないまま、ホフマン先生は亡くなります。

映画では「音楽を箱の中から世界に連れ出す」というのはあったかもしれないが記憶にないなあ。我が感想は


余計な説明がなく展開快調、リズミカル。暗闇の中で快適音響、音楽映画にありがちなとってつけたような音楽ではなくドラマに血肉化した演奏シーンがよかった。とりわけバルトークP協奏曲3番が効果的、ドラマとの絡みは忘れ難し。またプロコフィエフ P協奏曲3番によるエンディングも秀逸。

映画に原因があるのか我が鑑賞能力の問題なのか不明だが原作のキーワード「音楽を世界に連れ出す」を見落としていたのは返す返すも残念、Amazonプライム・ビデオで観られるようになるのがベストだが、シブチンがDVD購入を考えるぐらい残念や。
そして改めて原作文庫本の帯を見ると→「私はまだ音楽の神様に愛されているだろうか?」なる惹句。こんなの原作に一行も出てないぞ。ミスリードや、売らんがための策略や、これこそ「音楽を箱の中に閉じ込める」実例であった。金儲けの策略に惑わされず、もっと自由を、自由に音楽を愉悦しよう。