天井桟敷日記

「天井桟敷からの風景」姉妹版

カルヴァンの救済予定説

相変わらずKindle Unlimitedフリー読書満喫中。今朝は
を読んでいたら、カルヴァンの予定説に出会った。

さて、神は全知全能なので、誰を救済し誰を救済しないか、天地創造の初めから知っていたはず。言い換えれば、誰を救済し誰を救済しないか、あらかじめ決めていたはず。「神は人間の言動をみて、いろいろ考えたり考え直したりし、最後の審判のときにやっと誰を救済するか誰を救済しないかを決める」のではない、と考える。人間の言動は、神の救済を左右することができない。この点を強調するために、救済はあらかじめ決まっているという、救済予定説に立つのです。

あ、これは昨日、俺が書いた

信じる者は救われるなどというけれど、これは論理的にあり得ない。何故なら、信じる信じないは人間の行為。一方、救う救わないは神の行為。人間の行為によって神の行為が決まることになり、神の絶対性に反するからだ。

の延長線上の説ではないか。そうか、神の絶対性を徹底するとカルヴァンに行き着くんだ。昔、学校で習って救済予定説なんかアホかいなと思ったけど、最後の審判を信じれば救済予定説は至極真っ当な考えなんや。全知全能絶対の神も最後の審判も信じへんけど。

そして橋本大三郎はこう続ける。

第二は、これと関連して、徹底した人間不信。これは、神に対する信頼の裏返しです。救済予定説は、誰が救われ誰が救われないか、神だけが知っている(人間は知ることができない)と考える。そこで、どんなに尊敬されている人間も、どんなに地位や名誉や富のある人間も、救われていないかもしれない(邪悪な存在かもしれない)ことになる。ゆえに、どんな人間のことも、ほんとうの意味では信頼しないのが正しい。個人主義を徹底する結果、人びとは、心から信頼できる共同体をつくることができなくなって、せいぜい条件つきの機能集団(アソシエーション)しかつくれなくなるのです。

全てのキリスト教徒がこうではないやろが、キリスト教の根っこに神への絶対信頼→人間不信があるかもしれんな。和をもって尊しとする日本とは根本がちゃうで。だから、

 これが日本だと、「そんなことをすると、お巡りさんが来ますよ」「みんなに笑われるでしょ」などと言う。アメリカではどの親もこんな言い方はしません。こういう考え方が存在しないからです。そのかわり、なにかというとGodが出てくる。一日に、百回以上口にするのではないか。

何かあれば村八分→苛めに遭う社会と、全ては神意→最後の審判なる脅しが根本にある社会とどちらがええか。脅しは怖い、苛めに遭わなくてシアワセやったと思う朝である。
ついでにこの本から豆知識コピペ。