天井桟敷日記

「天井桟敷からの風景」姉妹版

クラシックは教養か娯楽か

FBで偶々佐村河内事件記事に接したのであの交響曲を指揮録音した大友直人検索。


週刊文春』の記者から突然電話がかかってきました。佐村河内氏の耳が聴こえていること、ゴーストライターが作品を書いていたことなどを非難しながら、佐村河内氏の曲の演奏を続けてきた私にコメントせよということでした。
私は、自分ははじめから彼の難聴に関してはまったく興味がないことを述べ、ゴーストライターの件は音楽に限らずいろいろなジャンルで実際にたくさんの例があり、そのこと自体を問題化すると収拾がつかなくなることを冷静に指摘したうえで、「このことを記事にすれば週刊誌は部数が増えていいビジネスになると思いますが、誰も幸せにはならないからお止めになったほうがいい」と申し上げました。すると、この記者が求めていたような答えではなかったのでしょう。「わかりました。大友さんのコメントは出しません」と言って電話が切れました。

「誰も幸せにはならないからお止めになったほうがいい」というのが上手な反応だなあ、さすがは大友直人、昔この人がMCを務めていたFM番組を録音→カセットダビングしていたなあと思い出して更に思いが及んだのは最近話題の著書
 f:id:doyoubi92724169:20200225055250p:image

この本の中でこんなエピソードが語られているようだ。
 
齋藤先生は私が高校に上がった年に亡くなられたので、3回くらいしかお会いしていないんですが、私の今の価値観や音楽への取り組み方に、大きく影響していますね。
齋藤先生は最初に母に会った時、こう言ったんです。
「お母さんね、息子さんを音楽家にするということは、河原乞食にすることなんですよ」


「河原乞食」という言葉はその時に初めて聞きましたが、実はこれは核心を突いた言葉です。つまり音楽には芸術や高尚な文化という側面もありますが、現代におけるポジションは、あくまでもエンターテイメントということ。今の日本のクラシック音楽界が忘れているものです。
「音楽家というのは河原乞食、芸人ですよ。そこをわかってますか?」と言いたかったんですね。齋藤先生は音楽の根本を的確に捉えていた方ですよ。


楽家は芸術家ではなくて河原乞食、食っていけるかどうかわからない道。その覚悟はあるか、というのが齋藤秀雄が言いたかったことなのだろう。
それはともかくそこで思うのはクラシック音楽は教養かそれとも単なる娯楽なのか、ということ。そこでクラきこの皆さんに質問することにした。


さて俺の答えは、クラシック音楽は娯楽。教養だとすると張り合う気分になりそうだし勉強のために聴いてる訳ではないもんね。
しかし「娯楽」には商業主義手垢がついているので我が短歌旧作「穏やかなニヒリストあり絶盤も希望も持たず悦楽に生く」に倣って悦楽にする。更には音楽を聴きながら「この作曲家はなんでこんな曲を作ったんやろ」と雑念が催すので謎解きでもある。また、


フェイスブックのグループ「クラシックを聴こう」で 「クラシックをこよなく愛する理由はなんでしょうか?」質問投稿があったので
人生探究が趣味なのでその一環です。
生き甲斐は将棋音楽物理学脳と五感を鍛えては逝く
と答えてしもうた。答えてしもてから、そうか俺がクラシック音楽を好む理由は人生探究であったかと我ながら自覚。そしてまた、将棋も物理学も哲学も人生探究やったのかと気づいた。

も生かすべき。そこで俺にとってクラシック音楽は謎解き人生探究悦楽となった次第。


ということで、大友直人「クラシックへの挑戦状」ヤフーショッピングで衝動買いしてもたがな。図書館には在庫無いし送料無料やし今日は5の日で500ポイントも付くから。