天井桟敷日記

「天井桟敷からの風景」姉妹版

神にもたれかかって生きる

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ラ・トゥールはカトリック教会の要望もあり何点もの『マグダラのマリア』を描いている。構図は微妙な違いはあるがろうそくの炎とドクロが描かれたおおむね同じものである。意味するところは『命のはかなさ』ということだが
http://www.artmuseum.jpn.org/mu_magudara.html

先日、大塚国際美術館で撮影。


フランス組曲全6曲聴き比べ終了。グールド  、ペライア、シュシャオメイ、キース・ジャレット
バッハ鍵盤曲の良さはベタついていないこと、加えてポリフォニーを聴き取る難儀も魅力やなあ。この難儀に身を委ねるのも快楽か。


そうそう、身を委ねるなどという言葉が出たのは購読している朝日にこんな記事があったから。


 内科病棟から「治療を拒否する患者さんがいて困っている」と言われ、訪れたのが出会いでした。彼が語る「図式」は明快でした。
 「病気の自分は何もできない」→「生きていると迷惑がかかる」→「迷惑がかかる人には生きる意味も価値もない」→「自分が死ぬことが誰にとってもいいことだ」
  彼はそう話し、「死ねる薬を1粒置いていってほしい」と自殺をほのめかしました。このように、どれくらい世の中に役立つかという「有用性」を重視する人生観は、現代の多くの人が持っています。実際、Tさんは達成感を求めて、仕事を転々と変えた人でした。
https://digital.asahi.com/sp/articles/ASM8W624TM8WUCFI007.html?_requesturl=sp/articles/ASM8W624TM8WUCFI007.html&rm=280
淀川キリスト教病院チャプレンの藤井理恵さんはこの患者に接していろんな話をしたり、聖書を読むことを勧めた。その結果、
聖書を通して人生を見直していくなかで、Tさんはやがて「生かされている」ことを感謝するようになりました。「自分みたいな人間が、生きるのに必要なものを備えられて生かされていることが奇跡のようだ」としみじみと話すこともありました。
 「これまで、病気の自分は死んだ方がよいとしか受けとめられなかった。病気になって知った弱さを通して、見えないものが見えるようになった。(死ぬことで)自分を処理するようなことをせず、神にもたれかかって生きればいいと思うようになった」
ほんまかいなとちょっぴり思うけど「神にもたれかかって生きる」というのはなるほどキリスト教と納得する言葉や。バッハも神にもたれかかってあのたくさんの仕事を成し遂げたんやあなあと、バッハを聴き取る支援材料が増えた気分。
キリスト教にせよ何にせよ宗教にすがることは金輪際無いやろがまさかの時のための念仏にもしておこう。そこで短歌旧作。
穏やかなニヒリストあり絶望も希望も持たず悦楽に生く
http://doyoubi.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-659a.html