原罪とは煩悩=傲慢
オルガン小曲集イゾワール、今朝は「おお人よ、汝の大いなる罪を泣け」で立ち止まってコラールプレイリスト作成→マタイ第1部終曲、ヨハネ第2稿冒頭曲、ヴァルヒャ、イゾワール、マリークレールアラン、ピアノではアームストロング、トリスターノ。
さてブログ記事に貼る画像は何にしようかと考えて、先日大塚国際美術館で見たリュベンス「キリスト昇架」を思い出した←ルーベンスを最近はかく表記するみたい。
キリストを十字架に架ける男の屈強筋肉が印象的、罪の重さを象徴している。そこで思い出したのはテレビで観た作曲家ペルトの言葉。ウィキから状況をコピペすると。
その後、神は自分の命令に背いたアダムと女に対して何を行ったのかを問いかけたが、アダムは神に創られた女が勧めたからとして神と女に責任転嫁をし、女は蛇に騙されたと責任転嫁をした(創世記3章9節 - 13節)。
神の命令に背いたのはイブもアダムも同罪だが、アダムはその上に「神に創られた女」のせいにして神に責任転嫁した、だからアダムの方が罪が重いとベルトは言う。
なるほどなあ、罪を犯してしまうことは往々にしてあるとしても、それを他人のせいにする人間の傲慢→自己中心性をユダヤ、キリスト教は原罪としているのだと多少は腑に落ちた。原罪とは煩悩=傲慢なり。
追記 昨日の羽鳥慎一モーニングショーで知った樹木希林の言葉。彼女は自分の中の原罪と闘っていたのかも。