真如随縁、不守自性
序 仏教はとても斬新な哲学である
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入門 哲学としての仏教 (講談社現代新書)竹村牧男 序 仏教はとても斬新な哲学である …
知識を詰め込みすぎ(華厳などの難解用語・法理)だけど好著。一番の収穫は「真如随縁、不守自性」なる言葉を知ったこと。
拝まない者も、おがまれている。 - 思考の部屋が文字起こししてくれているので引用させて頂く。
華厳思想において興味深いことは、・・・・無限の関係性について明瞭に指摘するとともに、その成立の基盤に、「真如随縁、不守自性」(真如は縁に随って現象し、自性を守らない)ということがあることを指摘していることである。
これだけでは何のことかわからないだろうから別の記事からもうひとつ引用。
「我々の自己は、何処までも絶対的一者と即ち神と、逆限定的に、逆対応的関係にあるのである。」(C354)
この限界の底面において、個人の存在は、極まるが、その極まるところにおいて、同時に、絶対者のハタラキが現れてくる。自己の自我が無にされる極限の場所(限界的底面で、自己のいる絶対現在のここに於いて、絶対現在の瞬間における、ここ)において、逆に「超越者」「絶対者」のハタラキが現れる。個のハタラキが極まるところにおいて、絶対のハタラキが現れるので、「逆限定・逆対応」という。これが西田哲学の焦点である。
ということで、我が終活宗教研究はキリスト教→ユダヤ教→イスラームとめぐりし後に仏教/西田幾多郎に立ち戻って来た。造物主(神)よりも仏の方が論理的情緒的に合っている証左ということなのだろう。
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今日の東京新聞朝刊に掲載された文芸評論家 斎藤美奈子さんのコラムに何度も頷いた。http://t.co/krH2iWA57s pic.twitter.com/ySB7q7kn6S
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