天井桟敷日記

「天井桟敷からの風景」姉妹版

バッハの真髄→快活愉快

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カンタータBCJ巻26、27、28の復習に入る←3枚を一通り聴いたら復習というリズムでカンタータ全曲登攀中。
巻28の最後の曲が暗めだったので巻26の一曲目→第180番『装いせよ、おお、愛する魂を』BWV180を新鮮、快活に感じた。とりわけ

5. アリア (ソプラノ)
いのちの 太陽
わが すべてなる 主
わが まこと 認めて
弱き 信仰すらも
卑しめざらん
http://www.ab.auone-net.jp/~bach/bwv180.htm

が愉快。
ブランデンブルグ協奏曲+声楽=カンタータ
なり。暗めのバッハもいいけれど、快活愉快こそ真髄かもしれぬと午後、テレマンアンサンブルのライブを控えて思う。

 

ブラームスはお好き?

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今朝もドイツレクイエム、聴いてもた。カンタータBCJ巻28に突入したけど対訳見ながら2曲聴いたら、ドイツレクイエムのドイツ語と格闘したくなってクレンペラー

いやあ凄いわあ、大規模劇的→第2曲と第6曲←でも劇的過ぎてホンマかいなとも思ったりして。そしてまた第7曲終曲「今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである」が嫌味やなあ→主に会わずして死ぬ仏教徒は幸せではないんかいな、少々腹が立つ。

ところでクレンペラー盤の宣伝記事に

今や大半の欧米人にとっても非日常のものと化してしまった《祈り》あるいは《教義》に対する想念を、二度にわたる《改宗》という紆余曲折を経ながらもなお真摯に持続させ得た、いかにもこの巨匠らしい厳しい精神の発露とでも言いたくなる名演奏。
http://www.hmv.co.jp/artist_ブラームス(1833-1897)_000000000034573/item_ドイツ・レクィエム クレンペラーフィルハーモニア管弦楽団_4948595

とあり、へーえオモロイなあ、プロテスタントカトリックの間を行き来したんかいなあと「ブラームス 改宗」で検索したけど詳細わからず。ドボルザークが「ブラームスは大人物にしては信仰深くない、教会に行かない」と嘆いたみたいだ。

そしてまた、検索で面白い記事発見。

それで、どちらの「復活」が琴線に響くかと言うと、自分的にはマーラーなのだ。学生の頃からブラームスの音楽に触れてきて、ブラームスのシンフォニーが好きであったにもかかわらず、マーラーの「復活」に近しさを感じる。

なぜだろう。現時点でひとつ思いつくのは、ブラームスがとても形式を重要視したということ。この「ドイツ・レクイエム」にしても、第4曲を中心に、前半と後半でシンメトリーな構成になるように作られている。音楽的には第6曲がいちばん盛り上がるし、終曲にふさわしくもあると思えるのだが、ブラームスは第1曲と呼応させる形で「幸なるかな」で始まる第7曲を置いて締めくくりとしている。(ちなみに第6曲と呼応する第2曲は、2番めにボリュームのある曲となっている)。
http://violafreak.blog.shinobi.jp/音楽の話/ブラームスの魂の行方

ドイツレクイエムが対称的構造になっているというのは参考になったし、ブラームス形式主義云々も同感。だから、復活に比して感銘薄いのも当然→そこでパーヴォの復活発見、デセイが歌うのも楽しみだ、BGMなう。

ドイツレクイエムと格闘中

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ここ数日来、ドイツレクイエムと格闘中。

格闘中といっても自分に甘い俺のことだからハードルは低い→藤岡幸夫関西フィルのライブ

http://www014.upp.so-net.ne.jp/oacho/concert-annai.html

で少しでも多くドイツ語を聞き取ること。

こんな望みを持つようになったのも、カンタータ全曲登頂作戦の副産物た。言葉と音楽は一体という当たり前の事柄に気づいたのだ。

以前は、言葉はどうでもいい、意味が分かればと翻訳に頼るのみ。原語なんか見向きもしなかった。それではイカン、聴く楽しみが半減するとようやく反省→対訳を見ながらドイツレクイエムとなった次第。

 

既に、クレンペラー、ラトル、アーノンクールを経て今朝はヘレヴェッヘ

クリスティアーネ・エルツェ(ソプラノ)
ジェラルド・フィンリー(バリトン

シャペル・ロワイヤル
コレギウム・ヴォカーレ
シャンゼリゼ管弦楽団
フィリップ・ヘレヴェッヘ(指揮)

録音:1996年6月8,9日、スイス、モントルー(デジタル)

アーノンクールの気迫もいいけれど、ヘレヴェッヘの明るい軽みの方が気に入っている。悲しみは明るく軽やかに。藤岡幸夫がドイツレクイエムを振るのは初めてだそうだ、ライブ楽しみ。


藤岡幸夫 @sacchiy0608
今朝はドイツ・レクィエムのスコアに浸る…以前ロンドンにいるマネージャーのニックに「本当の悲しみを知って初めてその深い美しさを理解できる作品のひとつ。」と言われた意味がやっとわかる…ブラームスのスコアには何も指示がないが音楽はテンポの振幅を迫ってくる…そしてどこまでも美しい…

午前7:44 · 2017年3月29日
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https://twitter.com/sacchiy0608/status/846855534468747264

人生=この世+あの世

f:id:doyoubi92724169:20170430063210j:image昨日は高校の同窓会→昼間から飲んで、帰宅しても中日戦見ながら焼酎、負けたのでそのまま布団の中へ。
真夜中に目が覚めて、まだ二日酔い。そこでバッハはやめてロマン派、シューベルトのあの切ない弦楽五重奏曲ハ長調

カザルスで聴き始めたがモノラルは堪忍→アルバン・ベルクQ+ハインリヒ・シフ。途中でロストロポーヴィチ+エマーソンQに切り替えてみたが、矢張りベルクQの方が切ないわいとベルクQに戻して終了。

学生時代からのお気に入りの曲。いずみホールでの堤剛+エクセルシオQライブが楽しみだ。
http://md.pia.jp/pia/event/event.do?eventCd=1709605

ところで、このところ
人生=事実+物語
http://doyoubi.hateblo.jp/entry/2017/04/03/065804
と思い込んでいるのだが、シューベルトを聴いていたら
人生=この世+あの世
と思いついた。あの切なさはあの世から来てるのか。「世間虚仮、唯仏是真」聖徳太子

新約は神との和解

f:id:doyoubi92724169:20170429052144j:imageカンタータBCJ巻26に突入
Disc26
ライプツィヒ時代1724年のカンタータ
第180番『装いせよ、おお、愛する魂を』BWV180
第122番『新たに生まれた嬰児の』BWV122
第96番『主キリスト、神ひとり子』BWV96
野々下由香里(S) ティモシー・ケンウォージー=ブラウン(C-T) 櫻田亮(T) ペーター・コーイ(Bs)
録音:2003年6月

BWV122を対訳見ながら聴いていたら、「新約は神との和解」なる言葉が閃いた。
世界=事実+物語
事実としてのイエスがどんな人で何を考えていたかは別にして、物語としてのキリスト教は、どうしようもない人間たちに対して神が神の子羊=キリストを遣わして和解させてくれたのだ。
ああ、それなのにキリストから2000年経ても戦争と暴力とが満ちていることか。

BWV122
第3曲 レチタティーヴォ(ソプラノ)
Die Engel, welche sich zuvor vor euch,
天使たちは、かつてはあなたたちを
als vor Verfluchten, scheuen,
まるで呪われた者のように避けていましたが、
erfüllen nun die Luft im höhern Chor,
今や、天上の合唱隊となって空を満たし、
um über euer Heil sich zu erfreuen.
あなたたちの救いを喜んでいるのです。
Gott, so euch aus dem Paradies
神は、かつてあなたたちを楽園での、
aus englischer Gemeinschaft stieß,
天使にも等しい交わりから追放しましたが
läßt euch nun wiederum auf Erden,
今や再び、地上にあるあなたたちに、
durch seine Gegenwart,
御自身の姿を現わして、
vollkommen selig werden:
完全な幸福へと招いておられるのです。
So danket nun mit vollem Munde
それゆえ、言葉を尽くして感謝しなさい、
vor die gewunschte Zeit im neuen Bunde.
新しい契約の希望の時が満ちたことを。
http://okimideiko.blog.fc2.com/blog-entry-1177.html

須らくご縁

f:id:doyoubi92724169:20170428054647j:image来週、テレマンアンサンブルの演奏会
http://www.ibabun.jp/eventLeaf.php?eid=00275
を聴きに行くので曲目を見たら、テレマンオーボエダモーレ協奏曲イ長調がある。これは知らんなあとアップルミュージック検索。
テレマンやホリガーをキーワードにして検索しても見つからない。
oboe d'amoreで検索してようやくこのアルバムを見つけた→トーマス・ステイシー。
NYフィルのイングリッシュホルン奏者とのことだが、この曲で合ってるかなあ←作品番号が上のリンクには無いので確定不能。

ともかくもこのアルバムで予習して行こう。トーマス・ステイシーも知ったし須らくご縁である。

一日一生、出会いに遅きはあらず

f:id:doyoubi92724169:20170427062826j:image昨日、今日とロ短調ミサにはまっている。最初はカラヤンBPO、でも途中でウィーン楽友協会の合唱に耐えられずBCJに乗り換え。

こちらの合唱の方が清潔透明、しかしリヒターの気迫熱気も捨てがたくリヒター。

今回、リヒターを聴いて俺のロ短調ミサ理解のステージがワンランク上がった気がする。キリスト教信仰の細かいことにこだわらず、
信仰=希望+感謝+納得
と押さえた上で、ラテン語歌詞を聞き取る努力しつつ聴く。なるほどキリスト教音楽のエッセンスがこの曲にあると実感した→キリエ、グロリア、クレド←イエス降誕と贖罪と復活、サンクトゥス、アニュス・デイ←神の子羊イエスの贖罪をもう一度思い出し我らに平安を。

そこで他の演奏もとネット検索ロ短調ミサ名盤→ジョシュア・リフキンを知る。OVPP←One Voice Per Partの提唱者とのこと。
OVPPという言葉は知らなかったが、FM古楽の楽しみで時々、バッハを1パート1人の合唱で聴いたことがあるがその方式の提唱者だ。

リフキンは1981年11月のアメリカ音楽大会で、
バッハの声楽曲の少なくとも一部分がOVPPでうたわれたという、これまでにない新説を発表し、
各パート三人が有力だった従来の説に一石を投じました。
リフキンの凄いところはここからで、新説を机上の空論に終わらせず、
新説発表後、ただちに自説に基づいて『ミサ曲 ロ短調』を実演し、
さらの新説発表の翌月の大晦日から10日余りをかけてその録音を成し遂げたことです。

ここで聴ける演奏は、OVPP(ソプラノはボーイソプラノではなく女声)はもちろんのこと、
器楽陣(ピリオド楽器)もほぼ各パート一人によるものです。
「ほぼ」というのは、第一ヴァイオリンが全曲を通じて二人、第二ヴァイオリンが後半から(おそらく「クレド
以下)二人である他は、すべて各パート一人だということです。編成は最大20人のようです。
https://blogs.yahoo.co.jp/tiento_antiguo/48321014.html?__ysp=44K444On44K344Ol44Ki44Oq44OV44Kt44OzIE9WUFA=

1パート1人だから声が濁らず合唱が透明、ラテン語も比較的聞き取りやすい。かつ、音楽に熱気があり、最後の合唱「我らに平安を」もリヒターに劣らぬ気迫で終わる。有名なOVPPとその提唱者に今頃出会うとは、などと悔やむべからず。一日一生、今日が始まるのだ。