天井桟敷日記

「天井桟敷からの風景」姉妹版

装いせよ、わが魂よ

バッハは好きだがキリスト教は嫌い、というか受け入れ難い。なぜなら
①人格神=造物主の存在。人間が神を作ったのに神が人間を作ったなんてちゃんちゃら可笑しい。
②三位一体なる変テコ教理。人格神だけでも信じ難いのにイエスを神の子にするなんて。


そやけど教会カンタータ ライブに向けて予習を昨日午後から開始。

カンタータ第13番「わがため息、わが涙は」Meine Seufzer, meine Tränen
カンタータ第65番「人々シバよりみな来りて」Sie werden aus Saba alle kommen
カンタータ第115番「備えて怠るな、わが霊よ」Mache dich, mein Geist, bereit
カンタータ第180番「装いせよ、わが魂よ」Schmücke dich, o liebe Seele

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昨日は歌詞対訳、解説書を見ながらテレビSpotify。今朝は寝床タブレット暗闇瞑目。バッハの教会カンタータ鈴木雅明BCJで全曲踏破したが、現在は全曲プレイリスト作成して気ままに散策中。今回の予習もその一環。
しかし、キリスト賛美歌詞のカンタータ は気に入らない。なんでそこまで美化するんやと思ってしまう。
ところが今回予習対象は美化カンタータ でないのがよい。BWV13は神に救いを求める嘆き、BWV65はイエス生誕の喜び、BWV115はサタンの誘惑に負けるなとの戒め、そしてBWV180は


装いせよとは、どういうことを云っているのでしょうか。その答えはこの歌詞の筋道に従って明らかです。それは神に対し無垢な心で神の御名を呼び求め、神の招きに応じること、その心に神は働いて、招かれるにふさわしい輝きを与えてくださる。
神は、選んだ民を、銀を精錬するように精錬し、金を試すように試す(ゼカリヤ13:9)。精錬は、無垢な心へと向けて行われるのです。その只中でこそ神の名を呼ぶものに、神は「彼こそわたしの民」といい、彼は「主こそわたしの神」と答えるであろうと記しています。


「神に対し無垢な心で神の御名を呼び求め」かあ。人格神や三位一体云々とかつまらぬ理屈を捏ねるな、無垢な心で神を求めよ、されば神は答えてくれるとBWV180は歌っている。バッハの時代から否大昔からキリスト教を受け入れ難いキリスト教徒はいたんだろうなあ、だからこんな教会カンタータをバッハは作ったのだ。
そこで思うのは渥美清が死の間際にカトリックの洗礼を受けたこと。


そこで、渥美清カトリックに帰依した理由を寅に成り代わって考えてみた。
仏教は人間本来無一物→自己は無い、捨てよというがそれが出来ないのが渡世人のつれえところよ。自己を捨てるためには委ねる相手が必要、それがキリスト。だから俺は最期にカトリックに帰依したのよ、さくら。
 


人生の目標は無心。死ぬ時は死にたくないなどと騒がないで無心で死にたい。無心になるための方便がキリストよ。装いせよ、わが魂よと方便に帰依できるかな、でけへんやろな。