天井桟敷日記

「天井桟敷からの風景」姉妹版

バッハの本質→哀歓の奥底

以前から断片的には聴いていたヨーヨーマ Bachトリオを今朝は全曲謹聴。

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チェロのヨーヨー・マ、フラット・マンドリンのクリス・シーリ、コントラバスエドガー・メイヤーの三重奏によるバッハ・アルバムが登場!
● トリオ・ソナタ第6番 BWV.530
平均律クラヴィーア曲集第1巻よりプレリュード第19番イ長調 BWV.864
● コラール『目覚めよと呼びわたる物見の声』 BWV.645
平均律クラヴィーア曲集第2巻よりプレリュード第20番イ短調 BWV.889
● コラール『主イエス・キリストよ、われ汝に呼ばわる』 BWV.639
前奏曲とフーガ ホ短調 BWV.548
● パルティータ第5番ト長調 BWV.829よりパスピエ
● コラール『主を頌めまつれ』 BWV.650
フーガの技法 BWV.1080よりコントラプンクトゥスXIII
● コラール『われを憐れみたまえ、おお主なる神よ』 BWV.721
ヴィオラ・ダ・ガンバソナタ第3番ト短調 BWV.1029
https://www.hmv.co.jp/news/article/1702150021/
マンドリンオブリガート、メロディはチェロ、そしてコントラバス通奏低音という編成が秀逸。この編成で奏でるコラール『主イエス・キリストよ、われ汝に呼ばわる』 BWV.639が哀しみの歌。他方、コラール『主を頌めまつれ』別題「イエスよ、汝今ぞ天より降り給えり」 BWV.650が歓びのコラール。バッハの音楽の本質はまさに哀歓にありと感じた。そしてこの哀歓の表現はロマン派自己中心的感情を超えたサムシンググレートから来ていると考える。


バッハにとって音楽は神の摂理の発見。彼が自筆譜にSDGと書いたのも上の鈴木の言葉を噛み締めれば納得がいく。
http://doyoubi.hateblo.jp/entry/2019/05/18/045812


そんなことを考えていたら西田幾多郎の短歌を思い出した。


わが心深き底あり 喜(よろこび)も憂(うれい)の波もとどかじと思ふ(同)
自己の奥底にあって自己を映す「絶対無」の場所をこう表現した。25年、5年余の闘病の末、妻が49歳で死去。
https://r.nikkei.com/article/DGXLASIH02H0R_U5A200C1960E00
そうか、西田の絶対無は心の奥底のサムシンググレートのことか。そういえば毎週録画しているEテレ「こころの時代」今週放送→シリーズ「禅の知恵に学ぶ」第三回 一寸座れば一寸仏 ―坐禅
https://www4.nhk.or.jp/kokoro/33/
からこんな話題が記憶に残ったなあ。
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 「どう生きるか」というテーマに老師は「碧巌録第27則」雲門うんもん体露たいろ金風きんぷう を提唱された。


 僧、雲門に問う、樹凋み(きしぼみ)葉落つる時如何。
 雲門曰く、体露金風。


 これだけではさっぱり分からない。山川老師は例えを出された。
梶浦逸外老師(83歳)にロスチャイルド家の三男が参禅して、茶を戴いてこの公案を聞いたという。世界の大富豪当時80歳である。答えて曰く、「そんなものは座禅せにゃわからん」
そして座禅を一緒に30分ほどされ、老師は茶を差し上げて問うた。がしかし、良いお顔で「わかりません」と。
 今から紅葉が始まっている。人生の晩年はどうですか?と聞かれて、花ざかりの最高の地位をなした人は、寿命はどうにもならない。
 山川老師は「死して花盛り」「死後も生きる、肉体より永遠、大きな生の世界に帰っていく。」人生は死が終わりではない。仏教では涅槃に入るという。
覚悟が大切で、精一杯生きよう。明日のことは分からない。
https://blog.goo.ne.jp/ssato555/e/4648ea478008a6af2a0ec82b8bb59e45


バッハの音楽の本質は哀歓の奥底、人間感情を超えた何か→涅槃に支えられている。それを禅では体露金風という。坐禅する気はサラサラ無いがバッハ謹聴は俺にとっての禅として置こう。