天井桟敷日記

「天井桟敷からの風景」姉妹版

Soli Deo Gloria

鈴木雅明盤をベースにしたクラヴィーア練習曲集第3部の学習終了。最後に作成したPLは4つのデュエット第4番イ短調BWV805。

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ヴァルヒャが心に沁みた。というのも鈴木雅明の次の言葉を読み返していたからだ。ちょっと長いけどコピペする。


ひょっとしたらバッハは早くから自分の死というものを考えていたのではないでしょうか。いずれ人間は死ぬのだからというような、自分の人生を振り返ってみて、というような思いがあった。死んでからも残す...という、永遠なるものへの志向がバッハにはあった様な気がするんです。ただ、19世紀の作曲家と根本的に異なるのは、自分の作品や名声をのこすというものではなく、もっと抽象的なものだった。結局バッハにとっては、対位法的なエッセンスとか和声や旋律など、音楽にどうしても必要な要素、音楽における原理、つまり美しいものを求める原理は、自分の存在とは別に存在するとバッハは考えていた。自分はこう書けるということではなく、その美しさのエッセンスというのはこういうものだ、物理的にこういう動きだから美しいんだという、いわば森羅万象を司る原理が重要だった。バッハはあのリンゴのニュートンになぞらえて尊敬された。カノンやフーガなどの彼の作品は、彼の技術や能力が「生み出した」ものではなくて、すでに自然界に存在していた「美の原理」を音楽の形にして顕わにしたのだ、ということです。そしてこの「美の原理」はキリスト教的にいえば、神の摂理の中にある。小さな自分が何か感じたとかではなく、もっと大きな価値観の中での営みであった。バッハの音楽がなぜ今日に至るまでこんなに力を持っているかといえば、やはり、そういう普遍性があるからに違いない。
http://doyoubi.hateblo.jp/entry/2018/08/22/090325


バッハにとって音楽は神の摂理の発見。彼が自筆譜にSDGと書いたのも上の鈴木の言葉を噛み締めれば納得がいく。

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彼は自筆楽譜の最後に「SDG」というサインを残しました。「Soli Deo Gloria」の略字で「神のみに栄光あれ」という意味です。弟子たちに教えるときにも、「音楽の目的は第一に神に栄光を帰し、そして、隣人に喜びを与えることだ」と繰り返し語ったと言われます。
http://www2.plala.or.jp/Arakawa/christian04.htm


バッハのように造物主=神を信仰することは到底あり得ないが、俺の人生に音楽を与えてくれたご縁→他力はリスペクトしよう。全てはご縁、人様のお蔭。