義務の観念は権利の観念に先立つ
面白い記事を読みながら楽しむノリントンN響。
シューベルト/交響曲第7番ロ短調D.759「未完成」
シューベルト/交響曲第8番ハ長調D.944「グレート」そもそも、ノリントンは90年代に、フルトヴェングラーのベートーヴェンの「英雄」の演奏について、「フルトヴェングラーが偉大なのは、演奏スタイルゆえではない。イマジネーションが豊かだからだ」と評していましたが、まさにその「イマジネーションの豊かな演奏」を彼は目指しているのだろうと思いました。
この演奏会、聴いたっけ聴かなかったっけ?と自ブログ検索→そうだ、裏磐梯紅葉狩だった。
朝飯×特報首都圏で知った「広い河の岸辺」。
連続テレビ小説「マッサン」で主人公のエリーが口ずさむ「広い河の岸辺」。
340年前にスコットランドで生まれたこの歌がいま、日本で異例のヒットを飛ばしている。
訳詞の「ふたりの舟は 沈みかける 愛の重さに 耐えきれず 沈み方も 泳ぎ方 知らない このわたし」の部分が女性に受けるんだろうなあ。クミコの歌唱は思い入れたっぷり過ぎるけど。
行きつけクリニック女医先生/血圧の危険ラインは150-90。朝起きぬけ測定をずっと続けているが数日前に危険ラインを越えたことがあったと言ったら薬変更。もっと効きのいいのにするって(下がり過ぎに要注意)。血圧を後生大事に年の暮
ヴェイユ読書。
「義務の観念は権利の観念に先立つ。権利の観念とは義務の観念に従属し,これに依拠する。ひとつの権利はそれじたいとして有効なのではなく,もっぱらこれに呼応する義務によってのみ有効となる。」ヴェイユ
人格主義(社会における人々の差異、有用性に着目)から非人格中心(差異ではなく人間の普遍性に着目)へ。普遍性とは「全ての人に普遍的に存在する善への希求と生命維持上の欲求」。鹿島茂書評から引用。
著者によれば、晩年のヴェイユが集中的に批判したのは、ムーニエやマリタンなどのカトリック系知識人が展開した人格主義であったという。なぜなら、ヴェイユから見れば、「理性や自由意志を持って屹立(きつりつ)する人間主体」という意味の「人格」は恵まれた境遇の人間にだけ現れるある種の「特権」であり、不幸に打ちひしがれるレ・ミゼラブルは人格など持ちえないからだ。「人格の尊重」とは「社会においてその人が他者から優越する部分を尊敬すること」であるのだ。では、われわれは何を社会の基盤にすえるべきなのか? ヴェイユは人間の中の非人格的部分であると主張する。それは、「なぜ人は私を苦しめるのか」と問うイエスの嘆きであり、「ぶたないで!」と叫ぶ子供の悲鳴である。「『人間の非人格的部分』とヴェイユが呼ぶその中心には、他者からの善意を求めてやまない子供っぽい願望、他者からこの願望を裏切られれば傷つけられるであろう感受性、そしてその願望・感受性と深く結びついた善への希求とが存在する」
「権利」は人間相互の争いを喚起する言葉。争いの敗者(社会的人格を与えられていない人々)にとっては無意味。そもそも、万人平等は虚構欺瞞、万人不平等が自然な出発点。そこで、「義務の観念は権利の観念に先立つ」となる。
以上、論証終了(と思うけど読者諸兄如何?)したらカントを思い出した。人生方程式とカント道徳哲学より引用。
結果より動機が大事、しかも、その動機が外から与えられるのではなく自律的に動機を作り出して(義務として)行動すること(それが自由)、そして義務とは、条件付きのものではなく(見返りに何かを与えられるでも何かのためにするものでもなく)無条件に「~せよ」と命じる絶対的命法である。
こうして、義務(定言命法)と自由は一致する。「義務を果たしているときにあなたは自由だ」がカントなのだ。
国立日帰り湯/寒いせいか少々混雑、図書館。
ボエームちょろっと練習、フィガロはパス。ベンハー終了/汝の敵を愛セ×定量×我が心の大阪メロディー。
広い河の岸辺~The Water Is Wide~ / クミコ (2014) 2014-7-29 HD - YouTube
#photoikku 血圧の薬代えたり冬安居 #jhaiku pic.twitter.com/styIS1elQY
— 土曜日 (@doyoubi) 2014, 12月 16