天井桟敷日記

「天井桟敷からの風景」姉妹版

分別無分別二本足

健太郎の日記/分別無分別二本足
事の起こりはこのツイート。


これをFB哲学グループに投稿したら反応あり→こんなコメを返した。
仏道の目的地が無私無心である以上、こうならざるを得ないのかもしれません。無私無心無規範無分別が私の目的地かもとも思います。もちろん、世間の規範は順守した上で。
そして暫し愚考していたら以前のツイート

の延長戦上に
人生=分別(損得、好き嫌い、善悪、理非)+無分別(苦楽、美醜、虚実)が見えた。自力=生活は分別、他力=人生は無分別をもってよしとするということだ。
そして、死を厭う心もまた生死分別なのだから、無分別をもってすれば俺が長年求めていた納得して死ねる境地に至る。ふふ、これも分別なのだが。

ちなみにネット検索したら

しかしながら、その『広辞苑』にも、仏教語として

「主体と客体の区別を超え、対象を言葉や概念によって把握しないこと。」

という解説もあるのです。

更に『広辞苑』にも「無分別智」という語が「無分別にもとづく智慧。根本智」として解説されています。

では、岩波の『仏教辞典』を見てみますと「無分別」は、

「分別から離れていること。主体と客体を区別し対象を言葉や概念によって分析的に把握しようとしないこと。この無分別による智慧を <無分別智> あるいは <根本智> と呼び、根本智に基づいた上で対象のさまざまなあり方をとらわれなしに知る智慧を <後得智(ごとくち)> と呼ぶ。無分別を実現した心のあり方を <無分別心> という。」

と解説されています。

仏教に無分別智なる言葉があるのだから我が
人生=分別(損得、好き嫌い、善悪、理非)+無分別(苦楽、美醜、虚実)
方程式も満更的外れではなさそうだ。そしてまたネルケ無方の
「人生に意味なんて、ありゃしない。自分の思いを手放して、ただ生きることだ」」
は無分別に生きよの勧めでもある。思いを手放すとは無分別になれと言っているのだ。

 

幸代のつぶやき

 

また、屁理屈LINEを寄越して来よった。なんやようわからんけど要するに「分別をもって行動、心は無分別に」ということやろ。そんなんウチはとうにやっとるわ。思いは千々に無分別、行いは道理に従いノリを超えずや。