無=潔さへの旅
昨日はブルックナー9番ジュリーニに出会ったので今朝はマーラー 9番ジュリーニ。
ジュリーニのマーラー、第9交響曲
— Leiermann (@leiermann) 2017年4月4日
日本でのジュリーニの評価を確立した名演。
細部まで丁寧に彫琢された表現で、過剰さや押し付けがましさは皆無なのに、この曲のどんな囁きも叫びも、あまた拾いあげられ、聞く者の心に刻み付けられる。
巨匠のイデーを実体化する、シカゴ響の合奏力にも瞠目する。 pic.twitter.com/cExIoFYmkH
終楽章を聴きつつ思う→マーラーにあってブルックナーにないものは諦念諦観。ブルックナーは神の赦しそして天上の喜びを歌うがマーラーには神の赦しも天上の喜びもない。あるのは諦念諦観→もっと生きたかったなのかこれで終わりなのはやむを得ないなのかわからないけどとにかく諦念諦観。ベートーベン後期弦楽四重奏に通ずるものがある。
なあんてエラソーな能書きする柄ではないな。そこでバッハ。
平均値クラーヴィア曲集第二巻からハ長調、ハ短調。ここには何の自己主張もない。言わば潔い音楽だ。そういえば小津安二郎の墓碑銘は「無」。
北鎌倉・円覚寺に小津安二郎の墓があることは、様々なガイドブックにでている。しかしこれまで訪問したことはなかった。いや、鎌倉や北鎌倉には何度も行っているのに、円覚寺じたい、参詣したことがなかったのだ。小さな浄智寺や東慶寺には何度も行っているのに。そこで今回、時間をみつけて行ってみた。墓は、有名な「無」墓である。墓石に一字「無」とあることで有名なのだ。ずいぶんと哲学的で閑寂な趣を予想していた。しかしちょっと予想とは違って、墓場じたいも、なんだか明るく、墓石も新しくみえた。おまけに隣の墓が「真」その隣が「寂」の一字墓だ。無墓が、他の墓と断絶して孤高の趣を発しているという予想とは、ちょっと違った。円覚寺の宗派では、このような一字に凝縮するのが、それほど異質なことではないのかもしれない。
小津安二郎もバッハも潔い。人生は無=潔さへの旅かもしれない。