天井桟敷日記

「天井桟敷からの風景」姉妹版

無=潔さへの旅

昨日はブルックナー9番ジュリーニに出会ったので今朝はマーラー 9番ジュリーニ


終楽章を聴きつつ思う→マーラーにあってブルックナーにないものは諦念諦観。ブルックナーは神の赦しそして天上の喜びを歌うがマーラーには神の赦しも天上の喜びもない。あるのは諦念諦観→もっと生きたかったなのかこれで終わりなのはやむを得ないなのかわからないけどとにかく諦念諦観。ベートーベン後期弦楽四重奏に通ずるものがある。


なあんてエラソーな能書きする柄ではないな。そこでバッハ。

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平均値クラーヴィア曲集第二巻からハ長調ハ短調。ここには何の自己主張もない。言わば潔い音楽だ。そういえば小津安二郎の墓碑銘は「無」。


北鎌倉・円覚寺小津安二郎の墓があることは、様々なガイドブックにでている。しかしこれまで訪問したことはなかった。いや、鎌倉や北鎌倉には何度も行っているのに、円覚寺じたい、参詣したことがなかったのだ。小さな浄智寺東慶寺には何度も行っているのに。そこで今回、時間をみつけて行ってみた。墓は、有名な「無」墓である。墓石に一字「無」とあることで有名なのだ。ずいぶんと哲学的で閑寂な趣を予想していた。しかしちょっと予想とは違って、墓場じたいも、なんだか明るく、墓石も新しくみえた。おまけに隣の墓が「真」その隣が「寂」の一字墓だ。無墓が、他の墓と断絶して孤高の趣を発しているという予想とは、ちょっと違った。円覚寺の宗派では、このような一字に凝縮するのが、それほど異質なことではないのかもしれない。

小津安二郎もバッハも潔い。人生は無=潔さへの旅かもしれない。