天井桟敷日記

「天井桟敷からの風景」姉妹版

言葉を信じる宗教、信じない宗教

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カンタータBCJ、巻15に進み第40番『神の子が現れたのは』BWV40 。
クリスマスに歌われるカンタータ。神の子=キリストがこの世に現れた理由、喜びを歌う。
キリスト教が凄いのは神の子が身を低くして人間の姿を纏って現れたという物語を持っていることだ←そんなことはイエスは一言も語っていないのに。

そのイエスを十字架上で殺せと人間は叫んだのに、イエスは「神よ許されよ、彼らは何をしているか知らないのです」と言われた。神の子が地上に受肉されただけでも凄いのに、アホな人間を許してくれる、これ以上の愛があろうか、信じよ神を。

いやあ、そんなアホらしい物語を信じられるか。仏教では愛は執着=煩悩、煩悩から脱すれば苦しみな無くなる。つまり、人間が人間で無くなる事を目指すのが仏教、神が人間になられたのを信じるのがキリスト教ということだ。

ところでこのカンタータ、こんな歌詞がある。

1.合唱
地に 来ませり 神の み子
悪魔の わざ 毀(こぼ)たんとて
(第1ヨハネ3:8)
2.レチタティーヴォテノール
言葉は 肉と なりて 世に 来たり
照らす 地の 上を
神の み子は
くだりたもう
高き み座(ざ)を 捨て
小さき 人の子と なりぬ
思いてみよ この みわざを
尊き 主 しもべに
身を 変えたもうなり
人の 世に あらわる
おお いかに 甘き 言葉
救い 慰めは
http://www.ab.auone-net.jp/~bach/bwv040.htm

「言葉は 肉と なりて 世に 来たり」はヨハネ福音書冒頭「初めに言葉ありき、 言葉は神と共にありき、 言葉は神であった」を思い起こさせてくれた。言葉が受肉した事を実感させてくれたカンタータだ。禅では不立文字を第一とするが、ここでも仏教キリスト教はベクトルが逆方向。どちらも両極端ということか。