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天井桟敷日記

「天井桟敷からの風景」姉妹版

ジタバタして死ぬのも尊厳死

遠藤周作「キリストの誕生」を読み始める。Google+にこの本のエントリを作る検索過程で面白い記事に出会った。

死に方について、日本には従容として死ぬ「死の美学」がありますが、遠藤周作はこう言っています。 

「自分も従容として死にたいが、できないだろう」。 

つまり、人間として尊厳を損なわない死に方をしたいが、肉体の苦しみは理性を失わせる。理性では肉体の苦しみを克服できない、という考え方。だから、ジタバタして死ぬかもしれない。それは、人間としてそれでもいいんだ、と。

キリストが死ぬときに十字架に磔にされ、ローマの兵に槍を刺されて非常に苦しみ、彼は「わが神よ、なぜ私を見捨てるのですか」と言って、最後には「すべてを委ねたてまつる」と。イエス・キリストも痛みに耐えられず、そういう言葉を発している、ということを知っていますから「ジタバタして死ぬのも、一つの尊厳死ではないか」と、氏は言っているのです。

自分がどんな死に方をするかは最大の関心事だが、従容として多分死ねない俺にとって多少は慰めになる記事ではあった。この方のご本、図書館にリクエスト/遠藤周作がどんな最期を遂げたかが読めそう。

 

映画「ペコロスの母に会いに行く」を観始める(先日観たけど酔ってたので再鑑賞)。テンポゆるし。半分観たところで「こころの時代 三浦光世」に切り替え。

三浦:  青年会の連中何人かで牧師さんに質問したことがあるんですね。「先生、愛ってなんですか?」と。牧師さんは大阪から来ておられた方で、「何じゃ、おもえたち、そんなこともよう知らへんのか。困ったもんじゃなあ」って、大阪弁でそう言いましてね、「愛とは何人を幸せにしようとする意志や」と言ってくれました。幸せにしようとする感情ではなくて重い意志ですね。人を幸せにしようとする心、志、意志。それを忘れられませんけどね。

山田:  最初の時に「とても目の綺麗な女性だった」と思ったとおっしゃいましたけれども、その堀田綾子さんにとても気持を動かされて、女性としてお好きになられた、というのは? 
三浦:  というのはほとんどなかったですね、正直言って。 
山田:  ないですか? 

三浦:  なかったです。治ってほしいと思って、いつも朝に夕にお祈りしておりました。ところがある時、ありありと、堀田綾子がとうとう亡くなった、という夢を見たんですよ。いや、これは残念だ、と思いましてね。それでもうキリストの足にしがみつく思いで、あれだけ長く同じことを祈ったことはありませんけど、「何としても治してください、治してください。あの苦しみから逃れさせてください。元気にしてください」と、まあくどくどと一時間近くもお祈りした。その時に胸に響いた聖書の言葉がありました。キリストが弟子たちに、「お前たちは私を愛するか」ということを言った。その「愛するか」という、その一語が非常に胸に迫るように迫ったんですね。これは一体どういうことなんだろうか。その時いろいろ思いまして、〈これは一緒に結婚して生活していかなければならないだろうか〉と思いました。思いましたけれども、しかし私には愛はない。兄にも言われるように、「お前は愛のわからん奴だ」と言われて、結婚しても、妻を愛していくなどという愛は私にはない。そういう愛というものを―それこそ人を幸せにしようとする意志や、ということは後で聞いたわけですけど―その愛を頂きたいと思って随分お祈りしました。そうしているうちに心が静かになりまして、それが決断でしたですね。毎年正月にはお見舞いに行っていたんですよ、元旦に。元旦に行きまして、四年目の時に、綾子が、「来年もまた来てくださるでしょうか。元旦に」と言いました。私は、「いいえ、来年は」と言いましたら、「あら、来てくださらないんですか。もうこれで終わりですか」というわけですよ。「いや、来年の元旦は二人でお父さんお母さんに新年の挨拶に来ることに致しましょう」と言ったんです。格好いいんですけども。これが告白です。

 

 

 

 

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