将棋と短歌と人生
スナック和代にて/和代が選ぶ旧作
エライご無沙汰やったねえ、何しとったん?
いや、老人アパートもイロイロあってな
短歌の新聞投稿、再開したんよね
うん、アパートのウケ狙いよ
それで入選したん?
まだわからへんねん。投稿から掲載まで一か月以上タイムラグがあるみたいなんよ
そうか、気長に楽しみにしてなはれ
おおきに
そいでな、ウチがいくつか選んだったわ、あんたの旧作縦書き文庫から。
土曜日の各駅停車ゆるゆると詩歌読みつつ職場に向かふ
エロスより出でてエロスに環り来む意味を求めてめぐりし後に
所有するなにものもなく愛恋の憶ひは持たず過ぎゆくは秋
穏やかなニヒリストあり絶望も希望も持たず悦楽に生く
まあ、こんなとこやね。このエロ悦楽歌人。
はは、若気の至りよ。
健太郎の日記/将棋と短歌と人生
日経歌壇選者の穂村弘で検索したらオモロイ記事に出会ったのでコピペしておく、
―他の文学ジャンルにはない、短歌ならではの良さはどのあたりにあるとお考えですか?
穂村「作者と読者の他に、もう一つベクトルがあるところですかね。短歌の作者は必ずしも読者に向かって書いているわけじゃないんです。じゃあ何に向かって書いているのかというと、五七五七七の究極形というか完全形というか、大げさにいえば神様に向かって書いているところがある。
将棋とちょっと似ていて、将棋も完璧な将棋の最終形、それが解明されたら将棋自体がなくなってしまうような究極の形を目指すっていうベクトルと、眼の前の相手に勝つというベクトルの二面性があります。おそらく将棋指しはみんなどちらかのカラーを持っていて、相手に負けないという指し方をする人と、究極を目指して神様に向かって指す人がいる。
考えてみたら、この二つのベクトルは将棋と短歌だけではなく人生にもあるんやな。
将棋では勝ち負け追求と名局探求、短歌では名歌迷歌吟詠と五七五七七充填、そして人生では例えば争い→意味探求と、生きることそのもの。
ここでネルケ無方を思い出した。
「「人生に意味なんて、ありゃしない。自分の思いを手放して、ただ生きることだ」」
— 土曜日 (@doyoubi) 2020年10月11日
—『読むだけ禅修行』ネルケ無方著
人生の意味探求なんて将棋で言えば勝ち負け追求にしか過ぎない。そんなことよりもっと大事なのは
勝ち負けとか人生の意味その他諸々の思いを手放してただ生きること。
ということで俺はあらためてひたすらエロスに徹しよう。生きる意味なんかないのだから。
三田の花山院にて
有馬富士ふもとの霧は 海に似て 波かと聞けば 小野の松風
https://www.city.sanda.lg.jp/gakushuu/sisi/dayori/documents/100301.pdf