天井桟敷日記

「天井桟敷からの風景」姉妹版

自分には出来ないことを祈る

神仏にお詣りする際に一応儀礼だから両手を合わせて祈るのだが、実は何をどう祈っていいかわからない。健康長寿とか家内安全とかを祈るのがフツーなのだろうがそんな現世利益を叶えてくれる神仏なんか合理的に考えている筈がないし、そんな低次元神仏なんかこちらから願い下げや、創価学会ではあるまいし。
そこへ、昨日の朝日 (それぞれの最終楽章)病院の牧師として:7 「赦せない自分がつらい」か面白かった。要点のみコピペ。


人は自己完結しなくてはいけないと思っていて、それができないから苦しい。ですが、最終的には人間ができる領域は決まっていて、そこから先は神様に預けるというか、風呂敷に包んでポイと投げ渡すしかない部分があると思います。キリスト教でいう「委ねる」ですが、神様にすべてを打ち明けて、祈るという行為も同じです。
https://digital.asahi.com/sp/articles/DA3S14165981.html?rm=150


そうか、キリスト教では「神よ、私をあなたに委ねます」と祈るのか、なるほど、これだと現世利益にならないなあ。でも、こんな自己放棄、俺には出来ないなあ。いやそもそも自分には出来ないことを祈るのだからそれでええんやなるほど成る程。

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音楽を聴くのも同様。癒しとか感動とかなんらかの見返りを期待するのは現世利益。そうではなくて無念無想、音楽にひたすら身を委ねるのがホントウなんや、などと雑念妄想いっぱいでエレミヤの哀歌予習中。


エスに「明日を思い患うな」なる言葉があるが、下心は「明日のために今日を生きる心」、真心は「今、ここをひたすらに生きる心」と言えるかもしれない。
とすれば我が得意の人生方程式に当てはめると
人生=下心(損得、好き嫌い、善悪、理非)+真心(苦楽、美醜、虚実)
https://twitter.com/doyoubi/status/1047225244191080449?s=21