バッハ、煩悩を超える音楽
今朝の聴楽はライブ予習。一つは京大オケ。
カリンニコフをライブで聴くのが目的。合わせてチャイコ、ドビュッシー 。
そしてもう一つは小林道夫×寺西一巳。
このデュオのライブはこれで3回目かなあ。主催の方がメールをくれるので聴き逃すことなく有り難い。
カリンニコフその他を聴いた後のバッハ。バッハとそれ以外の作曲家主としてベートーベン以降との決定的な違いは何だろう→閃いたのはベートーベン以降は自己表現→煩悩を描く音楽。対してバッハは煩悩を超える音楽。
19世紀の作曲家と根本的に異なるのは、自分の作品や名声をのこすというものではなく、もっと抽象的なものだった。結局バッハにとっては、対位法的なエッセンスとか和声や旋律など、音楽にどうしても必要な要素、音楽における原理、つまり美しいものを求める原理は、自分の存在とは別に存在するとバッハは考えていた。自分はこう書けるということではなく、その美しさのエッセンスというのはこういうものだ、物理的にこういう動きだから美しいんだという、いわば森羅万象を司る原理が重要だった。
http://doyoubi.hateblo.jp/entry/2019/05/18/045812
バッハにとって音楽は自己表現手段てはあり得ない。神の摂理の発見がバッハの音楽、だからバッハの音楽は煩悩を超えている。そんなことを思いながらグールド ×ラレードを聴いた深夜未明であった。