天井桟敷日記

「天井桟敷からの風景」姉妹版

パッサカリアとフーガ、小我と大我

昨日からヴァルヒャ12枚組オルガン全集に再び取り組んでいる。以前の取り組みでは漫然と聞き流したのだが、今回は聴き比べPLなる成果物を作りつつ謹聴する。成果物がない仕事はないのだと自分に言すい聞かせる意気込みなのだ。
今朝はパッサカリアとフーガBWV582ハ短調←おやこれ、まだPL作成してなかったわ。
そこでヴァルヒャ、リヒター、コープマン、吉田恵で作成。

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リヒターがいいな、足鍵盤低音パッサカリア主題の後から出てくる手鍵盤変奏に気迫と哀感がこもっている。人生はまことに悲哀なりと感じさせてくれる。そしてパッサカリア主題が様々に変奏されてフーガに到る。パッサカリアとフーガの切れ目をよく認識していなかったのだがトラックの切れ目でそうかここなのかと分かった。
謹聴しつつも雑念が湧く。先週のこころの時代山川宗玄の言葉を思い出す。
こころの時代~宗教・人生~ シリーズ 禅の知恵に学ぶ2▽生きることすべてが修行
https://www4.nhk.or.jp/kokoro/x/2019-05-19/31/2654/2008338/
人生は大河に浮かぶ小さな泡→小我。泡を自力で生きてるのではなく、大我大河に泡は生かされていることに気づくことが悟り、だそうな。その一例としてご自分の体験を語っていた。


本当に疲労困憊(こんぱい)という言葉が通じないぐらいフラフラとしていたと思います。 ですからその当時の記憶がよくないんです。あんまりないんです。しかしある時、 夜坐に出て、みんな禅堂に戻ったり、同僚たちも先に帰りますから、独りで本堂 の縁で坐っている時、時計の音が聞こえるわけです。「ボーンボーン」と。夜中 の二時だなと。一つ鳴れば一時とか、一時半ですね。そういうことだけはフッと 分かるんです。それほどだから身に入った坐禅が出来ていないんだと思います。 そうすると、その当時は情けないことですが、「ボーンボーン」と二時がなると、 「あと一時間半しか休めないんだな」とフッと思うんですよ。サッと頭に浮かぶ んですよ。倒れたいと思っているのに、卑しいもんですね。「あと一時間半しか もう横になる時間がないんだな」と思うんです。「ボーン」と鳴れば、「あと二 時間半だな」と。「二時間半しかないな」と。ある日なんですけども、何日だと 記憶ありませんし、いつだったかということもハッキリは覚えていないんですけ ども、その日に限って、「ボーンボーン」と二時が鳴ったんですが、普通でした ら、「あと一時間半しか休めないな」ということが頭にフッと浮かぶんですが、 その時、どういうわけか知りません。「一時間半も休めるのかな」と。「も」と いう言葉が浮かんだんですよ。「しか」から「も」に変わっただけです。何の変 化もないんですが、その「しか」から「も」に変わった途端に、ガラガラガラッ と「自分は変わった」ということを感じましたね。「完全に変わった」と思いま したね。
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-49.htm


食うて排泄して眠る、その繰り返しがパッサカリア主題。そして毎日は様々に変奏され喜怒哀楽があり、最後はいつかフーガに到る。小我がいつか大我に気づけばいいが、そのまま死ぬのが大概。人生は大河の一滴五木寛之も言うてたな。

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