天井桟敷日記

「天井桟敷からの風景」姉妹版

根尾の淡墨桜

豊中から4時間ほどで根尾谷に到着。途中の岐阜イオンで買った弁当を食しながら淡墨桜

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名木淡墨桜は千数百年の長きにわたって生き続けたが、その生命に衰えを見せ始めたのは、大正初期の大雪で太さ約4mの一の枝が折れ、本幹に亀裂が生じた頃からである。
http://www.city.motosu.lg.jp/sight/usuzumi/hogo/

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前田翁は、翌年24年3月10日から、先にその技術を教授した中島英一氏外数名を率いて来村され、多数の人夫を督励し、4月5日までかかり238本の根接ぎが行われたのである。
http://www.city.motosu.lg.jp/sight/usuzumi/hogo/
しかし

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 昭和34年9月の伊勢湾台風は、この老木に大きな被害を与えた。太い枝が折れ葉や小枝は殆どもぎ取られ無残な姿になってしまった。根尾村では、早速支柱を増し、施肥にも十分配慮を払ってきたが樹勢の回復は遅々として進まなかった。
 そのような時期、昭和42年4月11日に作家宇野千代女史が来村されたのである。
侘びしく立っているこの老桜の痛々しい姿に心をうたれ、グラビア紙太陽の昭和43年4月号にその感想文を発表すると共に、岐阜県知事平野三郎氏に書簡を寄せられ、何とかこの淡墨桜が枯死するのを防いで頂きたい旨を切々と訴えられたのである。
http://www.city.motosu.lg.jp/sight/usuzumi/hogo/
かくして樹齢千数百年の桜は危機を乗り越えて今も地元の方々の丹精により美しい姿を見せてくれる。この桜は天然記念自然ではなく文化と言うべきだと思いながら昨夜の宿舎、下呂温泉に向かった。反対車線には淡墨桜に向かう長い車列。ほんの数時間で大きな差がつく人生嗚呼。


さくら花幾春かけて老いゆかん身に水流の音ひびくなり
馬場あき子『桜花伝承』
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