天井桟敷日記

「天井桟敷からの風景」姉妹版

難解ショスタコーヴィッチ

リスペクトし大切にしたい作曲家は4人→バッハ、ベートーベン、マーラーショスタコーヴィッチ。
ところが先日、ブラボーオーケストラの大フィル録音ショスタコ2番3番を聴いて少々愕然←というのもこの演奏会、予習の上でライブに行ったのに、ブラボーオーケストラを聴いてみると愕然全く耳に覚えがなかったのだ。
そこでショスタコ交響曲の空白曲←イメージの無い曲を列記してみると
2、3、6、13、14
根が勉強好きなのでこのような空白はまことに遺憾、こんな空白があるのに何がリスペクトだと反省。
そこで今朝は14番本邦俗称「死者の歌」。

f:id:doyoubi92724169:20180603053307j:image

コムツカシイ歌詞がついていて曲間脈絡を感じられず敬遠していた音楽だ。異才クルレンツィスの演奏を解説+訳詞記事を参考に謹聴した。その結果、曲間脈絡の無さは多少軽減、音楽のイメージはうっすら形成、それでも何が言いたいのかようわからんなあ状態にはなったので参考にした記事からエッセンスをコピペ。


 ショスタコーヴィチ自身は、「戦争レクイエム」や他の「レクイエム」で歌われる「死」が浄化された「救い」「安息」であるのに対して、「死はすべての終わりで、ただそれだけだ」と言いながら、この曲のクライマックスである第9曲「おお、デルヴェークよ」では、人間は死んでも芸術の不滅の生命、永遠の価値は残ると歌い上げています。それがショスタコーヴィチの本音のように思います。曲としては、確かに第10曲「詩人の死」、第11曲「死は偉大だ」で、虚しく冷たく消えていく死を淡々と扱っていますが。
http://www.hi-ho.ne.jp/tadasu/shostakovich14.htm


人間死んだらタダのゴミは同感、しかし「芸術は永遠」とまでは感じ取れなかったなあ。でも、宗教は民衆の阿片→レーニズム、スターリニズム時代を生き抜いたショスタコーヴィッチ、その死生観が滲んでいるのかもしれない。難解ショスタコーヴィッチ、もう少し耕やす所存。