天井桟敷日記

「天井桟敷からの風景」姉妹版

BWV140→生きる意味

一昨年から始めた教会カンタータBCJ全曲踏破作戦、ようやく終点が見えて来た。

Disc52
ライプツィヒ時代1730~40年代のカンタータ
第140番『目覚めよと、我らに呼ばわる声』BWV140
第112番『主はわが頼もしき羊飼い』BWV112
第29番『我らは感謝せん、神よ、あなたに感謝せん』BWV29
ハナ・ブラシコヴァ(S) ロビン・ブレイズ(C-T) ゲルト・テュルク(T) ペーター・コーイ(Bs)
録音:2011年9月

全55巻中第52巻に到達→今朝はあの有名なBWV140、心の中の天国を聴いた。

キリスト教のこんなイエス賛美をアホらしいと切り捨てたりせずに、ああ、天国を歌ってるんやと素直に聴けるような気がしてきた。
目指そう、老年的超越。こころのなかにつくろう天国。
http://doyoubi.hateblo.jp/entry/2018/02/08/062008

そして今日は先日、スコセッシ「沈黙」を観たばかりなので、映画に登場したキチジローやロドリーゴ神父にも思いが及ぶ。あの映画そして原作も多分、ロドリーゴ神父は棄教して初めて本当の信仰に辿り着いたと言いたかったのではないかと。
そこで「キリスト教 偶像崇拝 踏み絵」検索→見つけた記事からコピペ。

遠藤さんのコラムを読むと「自分の肉体にはキリスト教という洋服がどうしても合わぬ気がしてならなかった」とか「日本人の感覚の中には神を必要としないものがひそんでいる。神の存在に対する無関心さと無感覚です。神があってもなくてもどうでも良いという無関心です」正直な作家であったと思います。ただ、生まれた時から洗礼を受けさせられた遠藤さんは、生涯にわたり日本人としてのキリストの教えを考え続けた作家でした。晩年は、3年にもわたる苦しい闘病生活。「苦しみの意味は何なのか?」神に対するその答えを自分の手で書く前に亡くなられた。その遠藤さんの死を看取ったシスターで評論家の鈴木秀子さんは著書でこう書いています。
「生きている以上、苦しみは人間に付きまとうものである。だから、苦しみのない人生なんてありえない。生きるということは苦しみを引き受け、孤独を引き受けたときにこそ見える。何か日常では見えない人生の意味というもの、それに達することができるのではないか」そして「苦しみが起こって欲しくない。苦しみがないことこそ幸せと願うことが私たちの願いではなく、その苦しみを受け入れること」だと…。
https://ameblo.jp/counselors/entry-12244490629.html

苦しみを引き受けることこそ信仰、生きる意味は心の中に天国を作ること。そのために俺は生まれてきた、なあんてね。

f:id:doyoubi92724169:20180214070601j:image