天井桟敷日記

「天井桟敷からの風景」姉妹版

往生=希望+真心

昨夜は議論白熱夜更かし→今朝の目覚めは遅く6時過ぎ。そこで聴楽はイギリス組曲3番イ短調、心に沁みた名曲だ。続いて古楽の楽しみモンテヴェルディオルフェオをBGMにこの駄文を書いている。

今月の100名著は歎異抄←再放送なのに初回放送の事はなんにも覚えていないなあと思いつつ③「救いと迷いの間で」を昨日昼間見た。ネット検索したら忠実に文字起こししている記事を見つけたのでコピペ。

釈 徹宗
「罪を消すための念仏というのは、自分の都合の念仏じゃないですか。それは偽物の念仏だというんですね。本物の念仏は他力を信じた念仏。罪や煩悩を抱えたまま浄土に行くんです。自分の抱えた罪がアリアリと見えてくる。それが念仏です」


礒野佑子
「念仏は唱えなくてもいいと言ってましたけど」


釈 徹宗
親鸞はそうはいってないですね。本物の信心には必ず念仏が備わっている。念仏と信心は一つの裏表の関係にあるというのが親鸞の考える仏道なんですが、唯円は信心に特化した話を展開していきます。これは唯円のオリジナルだと思いますが、唯円にはこういうことを言わざるを得ないような事情があったのかもしれませんね。


親鸞は、『念仏は自己の思慮分別やはからい(計算)が無いのが本来の姿である。唱えることも、説明することも、思議することもできないから』と言っている。

念仏は、我々の知性や理性で把握できるようなものではない。自分の計らいを捨てなければ、本当の他力の念仏にはならない。
http://fanblogs.jp/sumanonikki/archive/715/0

今朝、ペライアを聴きながら想念。計らいを無くした心はまごころ。往生とか成仏したい気持ちはこれっぽっちも無いが、信仰は希望
http://doyoubi.hateblo.jp/entry/2017/10/18/052500
そして悟りはまごころ。とすれば往生とは希望+真心と諒解した。生きてる間に往生するのが我が願い。

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