天井桟敷日記

「天井桟敷からの風景」姉妹版

懐疑と信仰

f:id:doyoubi92724169:20171012054930j:image
『わがため息、わが涙は』BWV13カンタータBCJ巻42←タイトルからも予想できるように手放し神=イエス讃美のカンタータではない。第2曲アルトのレシタティーヴォの歌詞にも

わが慕いまつる御神はいまだ
甲斐なく呼びかけさせ給い、泣き暮れるこの身に
まだ何も慰めを現わし給いません。
その時はたしかに遠く望めます、
しかしそれでも今はまだ甲斐なく哀願するばかりです。
http://okimideiko.blog.fc2.com/blog-entry-1192.html

と、信仰の甲斐なきを嘆く部分がある。信仰手放し讃美よりもこういう懐疑的カンタータの方が好みだなあ、そういえば「信仰は懐疑なり」と言ったクリスチャンはいなかったけとネット検索。

信仰と懐疑とは互いに相応ずる。それは互いに補(おぎな)い合う。懐疑のないところに真の信仰はない。―「クリストフ・シュレンプフの追悼」―
https://akizukiseijin.wordpress.com/2009/09/16/我が心の詩人―ヘルマン・ヘッセ/

ヘルマン・ヘッセだった。中学生時代に教養目的で「車輪の下」を読んだ記憶はあるが内容は全く空白。そこで更に検索すると

ヘッセは「さまざまな信仰告白の外にあり、間にあり、上にある、破壊することのできない一つの宗教」が存在することを信じていたのである。その際に彼は常に、教義や教説に対しては懐疑的であり続けた。「私はどの宗教も他の宗教と同じように良いと思う。それによって賢者になれないような宗教はないし、また、最も愚かな偶像崇拝だと人に勧められないような宗教もない」と彼は書いている。

https://www.hermann-hesse.de/ja/伝記/宗教

面白そうな人だ。原典を読む気はさらさらないが、何か新書本解説本を読んでみようか、でも、テレビ録画もだいぶ溜まってるし、将棋をもっと勉強したいし、などと鑑賞的人生=自分では将棋を決して指さず対局鑑賞のみの人間は懐疑するのである。