天井桟敷日記

「天井桟敷からの風景」姉妹版

唯識とインマヌエル

『いとも慕わしいイエス、わが焦がれ求める君よ』BWV32カンタータBCJ巻42
我が全カンタータ登頂プロジェクト、ぼちぼち遅々と信仰中なれど、今朝は昨日のプティットバンド 世俗カンタータBMV204われ心満ちたりライブの空気感が記憶に新しいのでひときわ心に沁みる思い。
されど、対訳歌詞を見るとやっぱり抵抗あり。

愛しまつるイエスよ、私の望みよ、
教えて下さい、どこにおられるのですか。 あなたを見失ってしまって、
もうお会いできないのでしょうか。
ああ、私の宝よ、私を喜ばせて下さい、
あなたをしっかりと抱きしめさせて下さい
http://okimideiko.blog.fc2.com/blog-entry-1185.html

おいおい、俺はそこまでイエスを愛せないよ、二千年も前のパレスチナに生きた人間なんか知らんよ。
まあでも先日、こんな屁理屈でこの問題を捩じ伏せようとしたのだが。

そうか、人格神としての神なんかこれっぽっちも信じたくないが、巡り合わせ→運命→神なるベクトルはありそうだ。つまり、神=運命=巡り合わせと捉えたらバッハの宗教曲も抵抗なく聴けると納得した次第。
http://doyoubi.hateblo.jp/entry/2017/10/07/055127

やっぱり納得してなかったんだなあ。
そこで、今朝は唯識=この世で出会う全ては私の心の中の出来事
を動員。イエスが二千年前に生きた事は歴史的事実、しかし唯識に従えば大切なのは歴史的事実ではなく心的事実、心の中の事実。

つまり、歴史的イエスではなく心的イエスをこのカンタータで歌っている、私の愛するイエスは私の心の中のイエスのことだと思えば良いんだ。

それが証拠にキリスト教でも、インマヌエル「神はわれらと共に」なる考え方がある。神は外にあるのではなく私の心の中にいるのだ。

鰯の頭も信心から。信仰は信心、心的事実を信じる事なんだなあ。さて、おまえは心の中にイエスや釈迦を作れるか。f:id:doyoubi92724169:20171010061644j:image