天井桟敷日記

「天井桟敷からの風景」姉妹版

キリスト教と仏教の統一的把握

毎日曜朝、Eテレ「こころの時代」が唯識を全6回で取り上げている。先週は

こころの時代 シリーズ 唯識に生きる 第3回「唯識を“体得”する」
仏教の根本思想『唯識(ゆいしき)』。「この世の存在はすべて自分の心が作り出したもの」と考え、心のありようを積極的に変える実践を説く。瞑想をして心の奥深くに沈潜するヨーガを実践し、人の心のメカニズムを徹底的に観察し分析して打ち立てられたのが特徴だ。第3回は、『唯識』は単に言葉では言い得ない、ゆえに言葉を離れて、心と身からなる体全体で獲得するという意味の“体得”をしなければならないことについて学ぶ。
http://www4.nhk.or.jp/kokoro/x/2017-06-18/31/31494/2008283/
そこで、俺がテレビ画面を撮影したのがこの写真。子どもの頃からの疑問「何故、俺は俺なのか。何が理由で生まれて来たのか」のヒントになるもの。

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生まれて来た理由は無い乃至判らん→それでは余りにも愛想無しなので縁起とする、それが仏教。もともと無我なのだからそれでええやん。

この写真を眺めていて、仏教キリスト教を統一的に理解する屁理屈を思いついた。
神=縁起+菩薩
アニュス・デイ=神の子羊=キリストに帰依して無我→幸せになろうとするのがキリスト教
仏教はもともと無我なのだから修行して菩薩になれと説く。
ちょうどベクトルの方向が逆なのだ、キリスト教は神から人へ、仏教は人から菩薩へ。

そんなことを思いながら25日京都シティフィル合唱団マタイ初ライブ予習。

ルドルフ・ルッツ&バッハ財団管弦楽団、合唱団
即興演奏と通奏低音を熱心に研究していたルッツは、マタイ受難曲にもその成果を導入、エヴァンゲリストのレツィタティーヴォを伴奏するチェンバロが自由な即興演奏になっていたり、コラールの間奏にチェンバロ・ソロが組み込まれるなど、マタイ受難曲の解釈に新風を吹き込んでいます。
http://www.hmv.co.jp/artist_バッハ(1685-1750)_000000000002339/item_マタイ受難曲 ルドルフ・ルッツ&バッハ財団管弦楽団(3CD)_5921107

神=縁起+菩薩では抽象的→そこでキリストの受肉と受難なるドラマを編み出したのがキリスト教。お陰でバッハをこんなに愉しめる。仏教キリスト教もバッハも人類の叡智、おお、神は叡智であった。