共同通信社取材班「全電源喪失の記憶」読了
現場の皆さんの必死決死の思いと努力・活動のお陰で今、なんとかこうして普通の
暮らしを続けられているんだ、有難いなあというのが読了実感。
から同書の感動的な部分引用(上のサイトで同書の他にも主要な部分が読める)。
曳田さんも残るつもりなんだー。
「自分たちがこの免震棟から退避させられるということは、残る人たちが死ぬということを意味していると思いました」
加藤は、原発の技術的な知識を教えてくれた曳田を恩師として慕っていた。もう会えない。そう思った加藤は対策本部を出ようとする人波をかき分けて曳田に近づき、そっと肩をたたいた。
「頑張ってください」
せめて一言、そう伝えたかったのだ。曳田は黙ってうなずいた。伸びたひげがこの5日間の苦闘を物語っていた。
ここで泣いてはいけない、と加藤は思った。ここで泣くことは、残る者たちに失礼だ、と。加藤はその時の曳田の顔を忘れることができない。
「悲壮な感じでした。どこかで覚悟を決めたような、いろんなものが入り交じったような表情でした」
対策本部にはもう数えるくらいしか人が残っていなかった。それまでの騒がしさがうそのような静けさだった。ホワイトボードには復旧や発電、保安など各班で残った社員たちの名前が書き込まれていった。
それはまるで墓標のようだった。
免震棟から第二原発への一部撤退の経緯がよくわかった。朝日のスクープ(後に取り消したが)は全くの捏造である。
「東日本大震災4日後の11年3月15日朝、第一原発にいた所員の9割にあたる約650人が吉田氏の待機命令に違反し、10キロ南の福島第二原発へ撤退していた」
4号機(点検中のため事故当時稼働していなかった。使用済み燃料はあったが)の建屋爆発を2号機爆発(これが本当だったら首都圏いや日本壊滅)と判断しての苦渋の一部撤退であったのだ。
原発再稼働の是非という難問の是非はさておき、事故から数日間の現場の実名証言ドキュメント。必読。