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天井桟敷日記

「天井桟敷からの風景」姉妹版

松影の暗きは月の光かな(自力と他力、凡夫と悟り)

今、俺の中でネルケ無方が小ブーム。悟り(禅)の入り口本として利用できないかとの目論みで読みつつあり。

で、その坐禅は生涯の��主食��からの転載。

斎藤:  しかし当時師匠には、安泰寺に最初にやって来た、それから出家をされた時、それぞれ言葉を投げかけられて、悩まれたこともあるんだそうですね。

  ネルケ:  はい。最初まだ留学生だった時点では、「お前が安泰寺を創るんだ」と言われたんですね、いきなり。で、これにはホッとしたというか、やったというか、もの凄く刺激されたんですね。あ、私ができる修行、ここ安泰寺では、私が自分の修行ができるんだ、と思ったんですね。ところがいざ出家してみると、よく師匠に言われたのは、「お前なんか、どうでもいい!」ということだったんですね。これは「安泰寺をお前が創るんだ」と、表裏一体の言葉と気付いたのは大分後になってからですね。最初はこれ矛盾しているんじゃないか、と思ったんですね。「お前が安泰寺を創る」と言っておきながら、「お前なんか、どうでもいい!」と。ところが大分経ってからですけれども、気付いたのは、自分のエゴを手放さない限りは、安泰寺を創ることもできませんし、自分の人生を創造することもできませんし、この周りの社会を創ることもできないんですね。両方とも大事なことですね。また私の人生、周りの社会に対する責任感と、自分を手放すということですね。それがわからないうちはどうしても自分の枠の中で安泰寺を創ろうとするから、それを否定する先輩たちとか、師匠に腹が立ったり、悶々したりします。自分の都合のいいように修行生活をつくろうとしてしまいますから、自分の都合のいいようには、一つもいかないんですね。

 この「私の人生、周りの社会に対する責任感と、自分を手放すということ」が我が人生方程式(自力、他力)に対応するということに気がついた。

doyoubi.cocolog-nifty.com

そして片山は、森有正は経験=信仰、内的促し=恩寵(愛)の境地に到達したという。そこで、我が得意の人生方程式登場。

経験=固有(損得、好き嫌い、善悪、理非)+普遍(苦楽、美醜、虚実)
人生=自力(損得、好き嫌い、善悪、理非)+他力(苦楽、美醜、虚実)

人生は、固有(生まれ・育ち、言語・文化など「私」の付着物)が普遍を夢見るプロセス。その普遍の果てが神(他力)なのかもしれない。

 再び、坐禅は生涯の��主食��からの転載。

若かった時に、「何を求めているか」と聞かれたら、多分「悟り」と答えていたと思うんですね。とにかく悟りたい。今はむしろ迷ったっていいじゃないかという境地ですね。迷いの自覚こそ大事じゃないか、と。自分が迷っているんだ、と。それがはっきり自覚したうえでの修行ですね。迷いから抜け出すというよりも、この迷いのからくりをはっきりさせる。一つの日本仏教の教えで、
 
松影の暗きは月の光かな
 
という詩があるんですね。「松の影」これは迷いですね。自分はエゴもある、欲もある。わからない部分だらけ。こういう松影が、暗ければ暗いほど、それがはっきりすればするほど、月も明るい。月の明るい証拠ですね。ところが悟りばかりを求めると、その月ばっかり求めていて、肝心な自分という松の木を忘れてしまうんですね。だから月もどこを求めたらよいかわからないし、見えてこないんですね。この影が見えて、初めて月もはっきり明るくなるんですね。ただそこを見るんじゃなくて、影を絶えず忘れてはいけないんですね。それを「迷い」というふうにも表現できますし、あるいは「悪」。自分が善い人だと思ったらそれは善い人じゃないんですね。「私は善い人です」と、そんな人がたくさんいますけれども、大体周りの人に嫌われるんですね。自分がそんなに善い人じゃないんだ、と。下手したら俺ほど悪い人は世の中にいない、と自覚して、初めて菩薩の道を歩めるんですね。あるいは私は賢い人だと思ったら、それも困るんですね。俺って何とバカだろう、と。そこで初めて菩薩として日々歩けるんですね。修行できるんですね。私は愚か者だと。悪いんだと。迷っているんだと。この自覚がまず基盤になくてはならんのですね。そこを捨てて、いや私は悟っているんだ、と。修行する必要はないんだ、と。大体私、わかっているから、わからないものはすべてなくなった、と。私は賢いんだ、と。私は善い人だ、と。人に尊敬されて当たり前だ、と。それが一番困るんですね(笑い)。一番仏のありようから遠いんですね。そうじゃなくて、私は迷っている。周りにも迷っている人はたくさんおられるんだから一緒に迷いましょう、と。この迷い、どこから来ているんだろう、と。このからくりはどうなっているんだ、と。お互い迷う者同士として、少しでも仲よく迷えるようにというか、少しずつ迷う凡夫として仏に向かって歩む。凡夫を自分がここにある凡夫を否定して、仏になるんじゃなくて、凡夫を自覚しながら、仏とか菩薩に向かう。それが迷える者の修行ですね。迷わないと悟りも見えてこないんですね。迷いがはっきりすることこそ悟りなんですね。この迷いをはっきりさせてくれるのが悟りですね。悟りがなかったら迷いも迷いとして見えてこないんです。だから迷いが消えてしまって、残るのがただ悟りじゃなくて、悟りのない人には迷いもないんですね。良心のない人は決して悪だという概念を持たないんですね。自分が悪人だという人は、良心があるからこそそう言うんですね。だから悟りも迷いもそうですね。悟りがなかったら迷いという概念とか迷いという実感がそもそも湧いてこないんですね。だから私、迷っているんだ、と。凡夫だ、と。どうしようもない凡夫がここにいるんだ、という実感がもの凄く大事ですね。

そこで、人生方程式改訂(こういう風に易易と改訂できるのがいいなあ、こいつ)。

 人生=凡夫(損得、好き嫌い、善悪、理非)+悟り(苦楽、美醜、虚実) 

凡夫として暮らしつつ、出来れば多少は悟って死にたい。そんな男に俺はなりたい。 

迷える者の禅修行―ドイツ人住職が見た日本仏教 (新潮新書)

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 目次

まえがき
どこのドイツだ?/安泰寺の修行/誤解だらけの日本仏教/葬式だけが仏教か?/修行は生き方の実践である

第一章 ドイツで仏教と出会う
1986年、ドイツに生まれる/母の死/神様はどこにいるの? 僕って誰?/坐禅との出会い/殻からの出口/ドイツのZEN/禅僧になりたい!/二人の祖父の影響/はじめての来日/日本で仏教が見つからない/焦燥の大学生活

第二章 憧れの修行生活
門前払い/お前は「現成公案」も知らないのか?/安泰寺へ/修行生活のスタート/地獄の作務/安泰寺の雲水たち/坐禅だけが修行ではない/下山

第三章 出家はしたけれど・・・
迷いと決断/出家。そして「無方」という「戒名」/二頭の山羊/ドイツ人に日本人の味は分かりません/「お前は靴底のチューインガム」/コップの水を空にして/カフカの鼠/山をおりてゆく仲間たち/ドイツに帰りたい・・・

第四章 京都てなもんや禅寺修行
掛搭志願/庭詰めと追い出し/旦過詰め/初相見/ドイツ人がなぜ修行をしているのか?/「末単」という存在の耐えられない軽さ/過酷な食事/恐怖の警策フルスイング/日本仏教のエリートには絶対に負けない!/軍隊よりも、地獄よりも・・・/老師との問答/不眠不休の臘八接心/方便が利く/「生きる」ことは、問題ではなく答えだった/我が名は、「ゲシュタポ」/この修行で、はたして人を救えるのだろうか/選佛場

第五章 師匠との決別
大藪先生との再会/「地に起く」。再びの安泰寺/寺の経営がピンチです/限界寸前・・・/格外の志気、感応道交/お前は波紋だ!

第六章 ホームレス雲水
ある決意/ホームレス入門/ディオゲネスの樽/ホームレスの「正法眼蔵」/四苦八苦/石垣の上の「お堂」/美しき闖入者/花でもなく草でもなく

第七章 大人の修行
雪のバレンタインデー/住職になる/安泰寺の「改革」/修行とは何か/トマトときゅうり/人生のパズルは一人では解けない/群を抜けて益なし/生きることと働くこと/日本人と欧米人の身体感覚/居眠りに憧れるドイツ人/羊たちと羊飼い/弟子が師匠をつくる/喜心・老心・大心/生死はみ仏のおん命/「迷える者」でありつづける

あとがき