マグリット展
ルーヴル展に続き2Fに上がってマグリット。わりと好きな画家、130点を集めた回顧展と解説パネルにあった。
国立新美術館、ルーヴル展とマグリット展。マグリットの観客雰囲気がルーヴルに比してがらっと若くなったのが面白かった。ルーヴルにもマグリットにも駄作多いが、未来は若者にあり。 pic.twitter.com/79oRaIM3xu
— 土曜日 (@doyoubi) 2015, 4月 30
描かれている恋人たちは、シーツで覆われたことによって、見ることも聴くことも嗅ぐことも禁じられている。彼らに有るのは、間接的な(それが恋人の唇だと信じるしかない)感触のみである。外的なものを知覚することが、もうほぼできない彼らは、そこに居るのがほんとうに愛する人か、という疑問が湧くだけではなく、じぶんの存在それすら、わからなくなっているにちがいない。
その次は最もショッキングな作品「凌辱」1934年。(「陵辱」ではなくて「凌辱」だよ)。これにもググった記事からナルホド引用しておこう。
この作品を見て「恥ずかしい」と思う気持ちが陵辱に合致する・・・第一印象。
しかし、ふと思う。
人の人たる所以・・・知覚を操る脳は頭部にある、その頭部の欠如。
「われ思う故にわれあり」という人の原点に欠けている。
頭部を外した肉体は物体に過ぎないのではと・・・。
無名性というよりも顔に酷似した物体であれば、陵辱という思いに辿りつかない。
鑑賞者を陵辱しているという観点は残る。しかしあくまで無名であれば、驚嘆と恥辱の交錯した曖昧な感想に留まるのではないか。
聖書において、人は知恵の木の実を食べた時から恥ずかしさを知る者となったとされている。
鑑賞者の眼差しを問う作品である。
≪人は原始、恥じることなく誕生し存在していたのだろうか?≫
こちらはもっと穏やかな絵、「光の帝国Ⅱ」1950年。日常に潜む違和感。
「大家族」1963年。宇都宮美術館にあるんだあ。
「レディ・メイドの花束」1957年。なんでこんな題名なのかわからん。
マグリットにおいては「問題と解答」がキーワードと解説パネルにあったのでググって
を見つけた。
最後に、 マグリットとその生涯。13才の時に母の自殺という衝撃的な体験をするも
ふだんはまじめな一銀行員として働き、広告デザインなどの仕事もしながら妻と平穏な生活を送っています。晩年には彼の様式も世間から認められ、壁画制作なども引きうけています。
とのことだ。ウィキにも
マグリットの生涯は、波乱や奇行とは無縁の平凡なものであった。ブリュッセルでは客間、寝室、食堂、台所からなる、日本式に言えば3LDKのつつましいアパートに暮らし、幼なじみの妻と生涯連れ添い、ポメラニアン犬を飼い、待ち合わせの時間には遅れずに現われ、夜10時には就寝するという、どこまでも典型的な小市民であった。残されているマグリットの写真は、常にスーツにネクタイ姿で、実際にこの服装で絵を描いていたといい、「平凡な小市民」を意識して演じていたふしもある。彼は専用のアトリエは持たず、台所の片隅にイーゼルを立てて制作していたが、制作は手際がよく、服を汚したり床に絵具をこぼしたりすることは決してなかったという。人は見かけによらない。平凡な小市民が「凌辱」のようなショッキングな夢想をしているのである。