不可知執受処了(唯識三十頌に学ぶ)
またこの頌も難しいですね。まず最初に「不可知の執受処と了な
り。」である。「執受」とは、認識作用に関する自分の内的なこと
即ち、種子及び感覚器官を持っている肉体(有根身)のことであり
また「処」とは、自分の外部の認識対象、即ち、自然界のことであ
る。そして「了」とは、認識作用のことである。ここで、「有根身」と「自然界(器世界)」の仏教的な考え方を
説明する。「有根身(うこんじん)」とは、一般に言う身体のこと
であるが、唯識では身体を有機体としてではなく、認識機能を主体
に捉えている。したがって、眼や鼻や耳そのものは、認識活動を助
けるものとして「扶塵根(ふじんこん)」と呼ばれ、識そのものでは
なく、物質的な位置づけとされている。また「自然界」は「器世界(きせかい)」とも言われており、山
河草木などの自然界のみでなく、我々の住んでいる環境全体を意味
している。ところで、唯識では第一頌で述べたように「すべての事物は、識
が変化したものである」との考え方に立っている。そして、認識は
変化して認識される側の作用と、認識する側の作用があって、成り
立つと考えている。この場合認識される側の作用を「所縁」、認識
する側の作用を「行相(ぎょうそう)」または「能縁」という。第三頌の「執受処」は、阿頼耶識の認識作用における対象、即ち
所縁が「執受」と「処」であることを述べたものであり、「了」は
阿頼耶識の認識活動、即ち、行相のことである。したがって、この頌を書き換えると「阿頼耶識は所縁として内に
種子と有根身、外に自然界を持ち認識作用をしているが、それを知
る(自覚する)ことはできない。」となる。では、何故知ることができないのか。このことについて横山紘一
著『唯識わが心の構造』には、次のように記述されている。
「阿頼耶識の所縁と行相とは不可知であるといいます。このうち、
所縁の不可知についてその理由をまとめると次のようになります。
内の種子と---微細の故に知り難し。
外の器世界------広大の故に知り難し。
転載のみの記事になってしもうたが、種子、有根身、器世界の3つの言葉を覚えておこう。
次に心王と心所。心所は51もあるという。覚えきれないが、遍行(触、作意、受、想、思)ぐらいは覚えよう。
ところで、遍行とは識が働くときは必ず一緒に働く心所である。
これについて説明すれば次の通りである。
①触(そく)
認識作用は、根(感覚器官)と境(認識対象)と識(認識する心)の三
者が結合して成立する。(三和合という)触は、この三者が和合した
時に生じ、また、三者を和合せしめる働きをする心作用である。
このように、触はさまざまな心作用を生起させる橋渡的な心作用
であることから、以下に述べる「受・想・思などの原因を作ること
を業とする」とされている。
なお、これは物理的な接触のみでなく心の触れ合いや音楽を聞く
自然の美しさを見るなどの精神的な接触を含む広い概念である。
②作意(さい)
作意とは、対象に向って心が積極的に働きはじめるときの心作用
である。認識は「触」と「作意」が働いてはじめて明確となる。
作意がないと触が働かない場合もあるし、触があっても作意が働か
ないと、明確な認識とはならない。「読書に夢中になっていると、車内放送の内容が分からない」、
「考えごとをしていたので、本の内容を理解していない」等は、
その例である。③受(じゅ)
触と作意によって認識の第一段階は成立し、それを受けて、好き
だとか、嫌いだとかの感情が働く。こうした主観的な感情が働くこ
とを「受」と言う。
「受」には、「苦受」と「楽受」(感覚的、身体的反応)、「憂
受」と「喜受」(感情的、精神的反応)と「捨受」(特別の感情を
もたない反応)がある。阿頼耶識の受は、捨受のみであると説かれている。その理由につ
いては、阿頼耶識は深層心で、認識のあり方そのものが弱いからだ
とされている。④想(そう)
想は、触・作意・受によって、受け入れた対象に積極的に捉え、
自分なりに構成して、一つの映像を組み立てていくことである。⑤思(し)
思とは意思のことで、物事を決定し行動に移すことである。遍行と相応した阿頼耶識の意識活動について、竹村牧男著『唯識
の探求』には、次のように記述されている。「この遍行そのものは、根・境・識が接触・和合し、対象に焦点が
結ばれ、情的反応が先行し、知的了解に達し、行動にうつるという
われわれの認識の順序を何ほどか表していよう。阿頼耶識の識活動
の実際は不可知であり、上記のような明瞭な認識活動が指摘できる
分けではないが、遍行の心所は、そのように認識の基本を形成して
いる。」