救いとは、魂において義務を果たし自由になること
ブルース・ウィリス目当てで録画した映画「16ブロック」拾い物の傑作だった。
ニューヨーク市警の刑事ジャックに課せられた任務は、16ブロック(区画)先の裁判所に証人を送り届けるだけのごく簡単なもの。だが、護送中、何者かに襲撃されてしまう。その証人が警察内部の不正を目撃していたのだ。法廷での証言開始まで残された時間は118分。不運にも警察を敵に回し、ジャックの人生で最も険しく、長い、わずか16ブロック先への<護送>が始まった・・・。
単なるアクション映画で終わっていないのが拾い物。「人は変われる」もっと大袈裟に言うと再生(復活)の物語。キリスト教に若干かぶれている俺はイエスの受難と復活を思った。
鈴木紘司「預言者ムハンマド」を読み始めた。イスラームの信仰告白は簡単だそうな。著者は(ネットによると)ムスリムとのこと。
ムスリムになるのは大変簡単で、口で「アシュハドアッラーイラーハイッラッラー ワアシュハドアンナムハンマダンラスールッラー(アッラーのほかに神はなく、ムハンマドがアッラーの使徒であることを私は証言します)」と言えばそれだけで十分です。
終活イスラーム研究の2冊目は中村廣治郎「イスラム教入門」岩波新書1998 /こちらは宗教学の立場からの概説書。巷の誤解を解いてくれる一書(かと思う)。例えば
ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教は共存していた この三つの宗教は「三大啓示宗教」であり、一神教であること、預言者の宗教であることなども共通している同根の宗教であった。従ってこれらの宗派が最初から憎しみあい、対立していた考えるのは大きな誤りとなる。長いあいだこの三つの宗教は共存しいたのが真相である。違いが明確になったのは三位一体説を正統とするカトリック教会の権威が確立してからである。イエスを神の子であるとする信仰は、あくまで預言者に過ぎず神ではないと考えるイスラーム教とは相容れないものである。中世ヨーロッパのカトリック世界において、イスラーム教が敵対する宗教とされて十字軍運動が始まり、さらに内部のユダヤ教に対する迫害が始まった。また現代のアラブとイスラエルの対立というのも、4千年前から続く対立ととらえるのは全くの誤解であり、シオニズムの展開、イギリスの中東政策などを要因とした20世紀に入ってからの現象に過ぎない。
プール、多摩センターロイホ/正月なのでコーヒー追加。
#photoikku コミセンに場所取りに行く初仕事 #jhaiku 短歌旧作「二十年資本に仕え覚えたり全ては仕事全ては遊び」があるが、仕事と遊びの
区別基準は「金を得るか否か」では即物的なので「他人のための義務か否か」にしたい。 pic.twitter.com/jn4DMeLtAj
— 土曜日 (@doyoubi) 2015, 1月 5
義務を果たしているときにあなたは自由だ: 天井桟敷からの風景
横軸(世間)は必要の世界、相対界。回心とか救いはそこにはなくて縦軸(魂)絶対界にある。すなわち、救いとは魂において義務を果たし自由になることなり。イエスよ、我は主にちょっぴり近づいたり。
紅白オオトリ松田聖子までようやく再生終了×ブログ書き「終活イスラーム研究開始(キリスト教中間総括)」
終活イスラーム研究開始(キリスト教中間総括): 天井桟敷からの風景
映画「少年H」進歩的かつ思慮深いクリスチャンの父親(さすがの彼も戦後一時虚脱状態になるが)を水谷豊が好演。人間は弱い、そこから出発しようとするメッセージが届いた。様々な批判を跳ね返す力はある作品。BD保存。
原作既読。原作で気になっていた父親が戦争の舞台裏全て知っています的な描写は無かった。しかし、そのせいかHの戦争に対する危機感が無さすぎる。父親ですら、焼野が原になった神戸を見て無気力となるのに、Hは相変わらず口やかましい小生意気のまま。Hのスタンスが全編通してブレないので、最後もあれ終わり?という感じだった。個人的な一番のハイライトはスパイと机に落書きした友達との仲直りのシーンだった。
ということで今日の総括。どんな時代にあっても我が義務を見つけよ、それが自由への道だ。でも(出来れば)安楽に一生を終えたいな。
ここで私の大嫌いな言葉を発表したいと思います。ずばり!!【先輩・後輩】
— NATSUKO KITA (@NTPIG) 2015, 1月 5
Amazon.co.jp: 16ブロック [DVD]: ブルース・ウィリス, モス・デフ, デヴィッド・モース, ジェナ・スターン, リチャード・ドナー: DVD