天井桟敷日記

「天井桟敷からの風景」姉妹版

キリスト教も浄土教も歴史的必然

信じる者は救われるなどというけれど、これは論理的にあり得ない。何故なら、信じる信じないは人間の行為。一方、救う救わないは神の行為。人間の行為によって神の行為が決まることになり、神の絶対性に反するからだ。
そこで神は一方的に人間を救うべくその子イエスをこの世に遣わしめた。とすればユダヤ教からキリスト教が生まれたのは歴史的論理的必然となる。
同様に難行自力仏教から易行他力浄土教が生まれたのも歴史的必然に思えてきた。

 

そして神と阿弥陀仏とを比べると、上から目線神より優しそうな阿弥陀仏の方が好ましい。自己愛大好き自尊心皆無をそのまま認めてくれて、且つ、あの世浄土を信じなくてもいいなら俺は浄土教に帰依しよう、まだまだ死ぬまでに時間はありそうだから。
ということでこの本、二回読了。番組も三回は観てる。著者加藤隆の大柄磊落な風貌に接するのもテレビの功徳。
ちなみに、旧約聖書ユダヤ人の歴史が滲み出ている一例を本書からコピペ。

 

エデンの園」のエピソードにも、さまざまな要素が付加されています。もとは、「知恵」を身につけて「神のよう」になった者が神によって追放される、という王制、特にソロモン王の支配についての批判のたとえ話だったと考えられます。

仲正昌樹の形而上学批判

「そういうわけで私は、形而上学的な諸幻想からの〝最終解脱〟のようなことは目指すべきではないと考えることにしている。取りあえず、これまで自分が無自覚的に前提していたことの無根拠性を自覚し、その前提を取り払った場合、「この私」にとって「世界」がどう見えるか「想像」してみる、という程度のことで満足しておくべきだろう――」

統一教会元信者だった人の形而上学批判。プラトンからフーコーにまで到る哲学者、思想家の紹介にもなっているが、形而上学批判は同じ事の繰り返しのようにも聞こえて読み飛ばしたりした。。
で、ご本人の結論は上にコピペした部分と見た。つまりは、私とあなたは同じ人間、だから話は通じるはず。これも広い意味の形而上学ではあるが。
ついでにカントの形而上学について触れた部分もコピペしておく。

カントは、物理的な因果法則や刹那的な利害関係などに左右されることのない「普遍的な道徳法則」を我々の内なる「理性」が志向しているという前提に立って、自らの道徳哲学を構築しようとしたが、「神」のような絶対者でもいてくれない限り、「私の内なる理性」と、目に見えない「普遍的な道徳法則」の間に対応関係があると信ずるのは困難だろう。

—『〈宗教化〉する現代思想 (光文社新書)』仲正 昌樹著

自己愛と自尊心とご縁・知足

今のマイブームはKindle読み放題とNHKオンデマンド。どちらも無料ではなくて有料いずれも月額980円。しぶちんにしては結構な出費だが、どちらもそれなりの見返りがあるので納得している。

Kindleを使って未明の読書→昼間はテレビNHKオンデマンド/100分名著、大河ドラマその他で暇人暇潰しの毎日だ。

そこで今朝Kindleしていたら自己愛と自尊心は全く異なることを教えられた。

自己愛自己中の俺は以前からなんとかこの自己愛を止揚することは出来ないかと気になっていたのだが、このルソー100名著に触れて刮目、眼から鱗→そうか、自尊心を持たない自己愛は存在を許されるのだ。

自尊心は自己愛に加えて他人と自分を比べて「俺はエライんだ」とするココロ。ルソーは他人と比べるなと諭してくれる、更には「足るを知る=知足」まで言うてるやないか。そうか、他人と自分を比べない自己愛は暴走リスクが無いんだ、ああこれで安心して自己愛に浸れるわ。

 

しかしこれで安心してはならぬ。自己愛には親鸞「我が心のよくて殺さずにはあらず」歯止めが必要。

 親鸞聖人の言葉を集めた『歎異抄』の第13章には、次のような言葉があります。
 「わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」 私の心がよいから私は人を殺さないのではない。縁がないから殺さないだけであって、縁が熟せば、人は百人でも千人でも殺すかもしれない。人は縁によってどのような行いをもしてしまう、そういう存在なのだ、と親鸞聖人は指摘されています。

俺が善人だから犯罪を犯していないのではない、たまたまそんな機会やご縁がなかっただけや、だから自分を誇るな奢るな。これも自己愛が自尊心に陥るのを止める歯止め。

ということで今朝のキャッチは自己愛、ご縁、知足。さて、100名著エミールの続きを読もう。

健全な自己愛モナドが利他の基盤。南無阿弥陀仏自己愛を唱えながら利他に到って成仏したいな、も一度南無阿弥陀仏

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Kindleタダ読み片山杜秀

先日の「クラシックの迷宮 悲愴」が面白かった。

そこでKindle検索「片山杜秀」→あったあったよタダ読み本片山杜秀

Amazonレビューから内容紹介コピペさせて貰うと

明治150年に当たり著者は、明治維新以降の近代日本を貫く
ものとして、「五箇条の誓文」を見出しています。

五箇条そのものの解説を経た後に、時代の変遷に則し、その
都度の五箇条のプライオリティが示されます。
その流れの中で、日本の近代史が見えて来るという仕組みで
す。

水戸学による攘夷に始まり、「方便の開国」を経て、「昭和
維新」において攘夷が回帰するという見立てが見事です。
第一次世界対戦後の総力戦を見越した、国家総動員体制構築
のための大正デモクラシーという卓見が光ります。

昨日今日で読み終えてタダ読み得した気分←といっても月額980円、読み甲斐のある本はしつこく検索しないと見つからないけど、美術書、ヌードなんかも眺められるのでよしとしよう。

それはさておき、片山杜秀Kindle蛍光ペンハイライトしてコピペできるのがいいので結論部分をコピペさせて貰う。

 

この自民党社会党という五五年体制が、戦後日本政治の基調でした。それが大きく転換するのが、ソ連崩壊、すなわち冷戦構造の崩壊とともに始まった一九九〇年代であり、平成という時代においてです。資本主義対社会主義というにらみ合いの図式は完全に壊れ、資本主義的な価値観が一人勝ちした。

同書「時代遅れの二大政党制」よりコピペ。

 

片山杜秀大正デモクラシー時の二大政党制が挫折破綻したのと同様に、55年体制後の二大政党制も同様に失敗→昭和維新の再来、テロ、クーデターなどを危惧している。そこで

 

国家社会主義の平準化思想を福祉と結び付け、同時に国家社会主義があわせ持つ成長志向や拡大志向の代わりに、縮み志向の農本主義の考え方を取り入れる。アジア主義からは帝国主義の成分を抜き取って連帯を模索し、アメリカ一辺倒の安全保障から日中、日露も込みにした安全保障環境へとシフトする。いわば、「縮み志向の昭和維新」です

同書「昭和維新の応用」よりコピペ。

 

しかし、この昭和維新の応用は気に入らないなあ。そもそも維新なる言葉が俺は大嫌い、維新を名乗る政党もスカンタコ。まだまだ二大政党制には未練あり、国家主義党vs個人主義党になれば対立軸がハッキリしていい。でもそうはならんやろな、憲法改悪→令和維新を見るのは嫌や、長生きもたいがいにせむか。

ちなみに明治維新についてはKindleタダ読み小説

が面白かった。以前はタダ読みできたのに今は有料。諸行無常なり。

数の概念はどうやって生まれるか

NHKオンデマンド姫たちの戦国」をBGMに100名著「純粋理性批判

第2回科学の知は、なぜ共有できるのか

を予習していたら

数の概念はどうやって生まれるか

に出会ったので紹介。

 

量のカテゴリーだけでは数の概念は生じない、とカントは考えます。量という思考のカテゴリーに、空間と時間の直観が結びつくことによって、数が生まれます。

こうして数の概念が生まれるためには、まず「空間」が必要であり、かつ、継続的に加えていくのですから、そのつどの経験を「時間」的にまとめていく(総合する)ことが必要となります。空間・時間の直観がないと数の概念は生まれない、ということがハッキリしました。

要するに、ホワイトボードなる空間にいくつかの点を描いてそれらを数えるという時間的行為を行う。だから、数の概念の成立のためには空間と時間が必要という理屈。

カントはこんな説明をしてはいないが、番組指南役の西研がテキストにわかりやすく書いてくれている。最近Kindle読み放題で読んだ中山元

自由の哲学者カント カント哲学入門「連続講義」

にも同様の説明があったが、100名著の方が断然わかりやすい。西研、益々お気に入りになった。

 

 

神とは思考に他ならない

色即是空空即是色、これをカントに倣うと物自体即現象現象即物自体。そして現象とは畢竟、認識→思考に他ならないのだからスピノザ神即自然とは思考である。ちなみに

しかしスピノザによれば、思考しているのはだれでもない。思考そのものである。宇宙が無限に多くの物理作用で満たされているように、無限に多くの匿名の思考作用が全自然を満たしている。われわれは自分が考えていると思い込んでいるのだが、本当は思考が勝手に考えているのである。

コペルニクス的転換

来月の100分名著は純粋理性批判。ちょうど中山元自由の哲学者カント〜カント哲学入門」

「この講義では、カントのテクストをいろいろと読みながら、カントが啓蒙の時代にあって、いかに自由の概念を重視し、自由に思考することを大切に考えていたかを探ってみたいと思います。

を読んでいたので復習好契機と渋ちんがKindle購入してもた。

カントの主著『純粋理性批判』は、哲学のあり方を根底からひっくり返すインパクトを持つものの、専門家ですら読み進めることに困難を極める一冊。重要性も難解さも哲学史上の最高峰だ。

そこで今朝は第一回分を予習。
カントのコペルニクス的転換をきちんと理解出来た気分→蛍光ペンでハイライトした部分を下にコピペ。

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カント認識論のエッセンスは「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う」というフレーズに集約されるでしょ

 

認識の客観性は、主観の外に出ることで可能になるのではなく、それぞれの主観が捉えた世界(現象界)が他者と共有されることで可能になる、と発想を転換させたわけです。

 

残年の相当時間を電子図書活用→読書に充てよう。これが我がリア充なり、