天井桟敷日記

「天井桟敷からの風景」姉妹版

知足=見切り千両

パルティータ1番2番鈴木雅明を今回書いていなかったので変ロ長調 BWV825鈴木雅明。聴き終えて今度は同じくレオンハルト
お、レオンハルトの音の向こう側に入り込めたぞ。続いてハ短調 BWV826レオンハルトも愉しめた。
つまりはレオンハルトの素晴らしさがわからないと思っていた偏見が晴れたということか。その素晴らしさを言葉で表現することは出来ないが。


ところで昨日は寅さんお帰り。

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言わば寅さん総集編やったな。上映前にナマ山田洋次×浜村純対談があって撮影禁止アナウンスも無かったので撮影してる人が結構いたが俺はグッと我慢。頭の中のフィルムにしっかり納めた。

些細に観察して発見(^^)


ということで今朝のキーワードは偏見を晴らして足るを知る。山田洋次は小綺麗にまとめすぎる、先日のTVドラマ少年寅次郎もそうやなどと思うのは偏見。世の中ありのままで足るを知る。これを相場では見切り千両という。


12月上旬には納車見込みらしいが、車を乗用車から軽にダウンサイジング→税金その他コスト削減足るを知る。そしていつかは見切り千両、安全運転のままで免許返上。

音の向こう側へ

レオンハルトの素晴らしさを俺も感じたいと今朝もパルティータ聴き比べ→3番イ短調 BWV827と4番ニ長調
コープマンを聴いてレオンハルト、次はその逆を聴いてもチェンバロの音の違いはわかってもレオンハルトの素晴らしさはやって来ない←当たり前だよそんなの、もっともっと聴き込まないと、ましてや自分の耳の不確かさ、散漫ぶりを思え。


そこで聴き慣れたグールド。これは感じる、音と音の間から音の向こう側に入り込んでグールドに触れたような気になる。素晴らしさを感じるということはまずは音の向こう側に入り込むことなんだなあと諒解した。
では鈴木雅明はどうか、とパルティータ。そしたら自己暗示もあるかもしれないがしっとりしたものを感じた、音の向こう側に入り込めた気がちょっぴりした。

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思えば、世の中の出来事は全ては自分の心の中の出来事に過ぎない。客観なるものは存在せず全ては主観。自分の心というフィルターを通してのみ世界や他者や事物に接しているのだから。
だから素晴らしさを感じるということは実は自分の心が変わるということなのだ。
しかしまあレオンハルトまではまだまだ遠いなあ。そもそもチェンバロの装飾的な音に抵抗があるのだ。
でもいつか鈴木雅明、コープマンがレオンハルトの音の向こう側に導いてくれるかもと明日もパルティータ聴き比べ。
 

ワンコインで聴くバッハエッセンス

毎年、いずみホールで開いているワンコイン音楽講座、昨夜はワンコインで聴くバッハ エッセンスだった。

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いずみホール音楽講座 作曲家・西村朗が案内するクラシック音楽の愉しみ方Ⅹ 
バロック讃~ポリフォニーの至芸

ラヴェル:古風なメヌエットで始まりエンディングはラズモ3番終楽章。その間は全てバッハ→音楽の捧げもの、フーガ の技法などのエッセンスを聴けた。とりわけフーガ の技法/最後のフーガ弦四をライブできたのが心に沁みた。いつか全曲弦四ライブしたいな。


ところで西村朗によると、ポリフォニーを究極まで突きつめたバッハがその死後忘れられたのは面倒くさいポリフォニーより容易いホモファニーにその後の作曲家が惹かれたからとのこと。まあ話しをわかりやすくするためのアヤなんだろうけど。
バッハの音楽が、市民革命の時代精神啓蒙思想からすると古臭い時代遅れの難解なものになってしまったからだというのも以前、聞いたことがあるが、どうなんだろう。


それはともかく、バッハの音楽は固体、ハイドンモーツァルト以降は液体、ドビュッシー は気体、しかしベートーベンはモチーフを発展結晶化した固体という西村朗のたとえも面白かった。ワンコインでバッハエッセンス、コスパ良き一夜を過ごさせてもらった。


 

バッハと法華経

昨日の日記→FBグループ投稿は大盛り上がり←レオンハルト「不道徳」発言のインパクトは大きかったんだなあ。


---最近では再びモダン・ピアノによるバッハ演奏の試みが増加しているように思われますが。
L 私はきわめて否定的です。絶対にやるべきではない。バッハの意図をすべて無視する行為といってよいでしょう。歴史的チェンバロがなかった100年前なら許されるでしょうが、私は我慢できません。まったく不道徳です。

そこで今朝はパルティータ1番2番グールド。次いで1番コープマン聴き比べていたら不道徳発言故に毛嫌いしていたレオンハルトを聴かねばならぬと反省→レオンハルトで1番2番。コープマンに比してチェンバロの音が柔らかく軽やかしかし真摯過ぎる演奏で軽佻浮薄には受け止め辛い。つまりはグールド→コープマン→レオンハルトの順で遠いと感じた。

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パルティータ全曲 レオンハルト(1986)(2CD)
堅固な骨格で厳粛な面もちをしていた若き日を過ぎ、音楽的にもふくよかになり人間的な優しさをも感じさせるようになったレオンハルト円熟期のバッハです。独特の奏法により多彩なニュアンスが曲に与えられています。

そこで思ったのは昨日録画再生した今月の100分名著「法華経」。



悟りは遠く離れた高みにあるのではなく足下にあるんだって。だから毎日バッハ死ぬまでバッハ、今は遠く離れているように思えるレオンハルトもいつか近しくなる。常不軽菩薩、南無妙法蓮華経

チェンバロかピアノか

コープマンでバッハ、聴き倒す作戦、チェンバロ曲をSpotifyで探したがパルティータと平均律クラヴィーア曲集しか見つからなかった。イギリス組曲フランス組曲の録音もあるようだがSpotifyには無し。
そこで今朝はパルティータ BWV825-830。1、2.、6、3番と聴いてさすがに疲れた。そこでグールドに切り替えて3番。


一聴、情感を感じる。そうか、ピアノは打鍵強弱とダンパーペダルの存在があるから表現力大なんだ、だからチェンバロに比べるとピアノに情感を感じるのか、それにピアノの方が聴き慣れているのもあるやろなあ。
バッハをピアノで聴くときいつも思い出すのはレオンハルトの言葉。

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---最近では再びモダン・ピアノによるバッハ演奏の試みが増加しているように思われますが。
L 私はきわめて否定的です。絶対にやるべきではない。バッハの意図をすべて無視する行為といってよいでしょう。歴史的チェンバロがなかった100年前なら許されるでしょうが、私は我慢できません。まったく不道徳です。

不道徳とまで言うレオンハルトに拒否感を持ってしもた、ろくにレオンハルトを聞いていないけど。
打鍵強弱とペダルはチェンバロにないやろ、さまあみろレオンハルトと思いながらグールド を聴いてまたチェンバロ/コープマンに戻ってパルティータ全曲終了。コープマンも面白いけどやっぱりバッハ×ピアノが好き。グールド、ペライアそしてグルダ ついでにシュシャオメイでバッハ死ぬまでバッハ。

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寝落ちしながら聴くシュメッリ歌曲集

今朝もコープマン9枚組。フルートソナタを聴き始めたが気がついたらシュライヤーが歌っている。

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ペーター・シュライアー(ドイツ語: Peter Schreier, 1935年7月29日 - )は、ドイツのテノール歌手・指揮者である。ペーター・シュライヤーとも表記される。シュライアーには、ドイツ語で“金切り声をあげる人”という意味がある。

9枚組の8枚目は歌曲とオルガン曲。最初の方だけ拾い出すとこんな感じ。


【CD8】
愛する心よ、思いみよ BWV482
愛の太陽 BWV446
満ち足りてあれ BWV460
この日は終わる BWV447
コラール前奏曲『キリエ、父なる神よ永遠に』 BWV672
コラール前奏曲『クリステ、この世のすべての慰めよ』 BWV673
コラール前奏曲『キリエ、聖霊なる神よ』 BWV674

検索調査してシュメッリ歌曲集と呼ばれるものを歌っていると判明した。
シェメッリ賛美歌集(Schemellis Gesangbuch、一般的な日本名は「歌曲集」)は、ライプツィヒ南西のツァイツのカントールをしていたゲオルク・クリスティアン・シェメッリ(Georg Christian Schemelli)がバッハの協力を得て集めた、宗教的アリアと歌曲集である。BWV439〜507。

9枚組の最後はモテット←今BGMしている。寝落ちしたりBGMしたりしているがこれで9枚組卒業とする。シュメッリ歌曲集 BWV439〜507の番号だけでも覚えよう。しかしどうせ忘れるな、だからここに記録しておく。
思い出だけが人生だが、忘れても死んでもブログは残る。
 

作曲→演奏→聴楽

コープマン9枚組からバイオリン&チェンバロソナタ6曲を聴き終えた。
 

【CD6】
ヴァイオリン・ソナタ第5&6番 BWV1018&19
 

モニカ・ハジェット(vn)
トン・コープマン(cemb)

無伴奏ソナタに比べてこのデュオソナタ知名度が低く、俺も4番の冒頭のマタイ受難曲アリアに似た部分しか耳覚えがない。今回全6曲を聴き通してもあまり印象が深まらなかった。イカン、グールドのデュオをだいぶ聴き込んだのになあ。
そこで後日、今度は名曲解説ライブラリーを見ながらリベンジすることにした。

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内容がやや古いです。 1993年刊行ですが、内容はそれ以前に書かれたものの寄せ集めで、1970-80年代の研究をまとめたという印象で、最新の研究を踏まえていません。 

さて、バッハSpotifyの後は溜まっているFM録音消化→クラシックカフェ ベートーベンop 131嬰ハ短調エマーソン Q。
こちらはベートーベン晩年弦四に親しむ道を開いてくれた名曲。エマーソン Qの演奏も素晴らしい←欲を言えばもう少しギラギラした脂肪感が欲しいが。それはともかく聞いてて音として変化たっぷり面白いのだ。以前はこの曲にベートーベンの思想や諦念を嗅ぎ取ろうとしたのだが近頃は音として面白いかどうかを愉しむようになった←つもりだ。
そこで思うらく
作曲家は様々な工夫や努力の果てに楽譜=設計図を作る。彼が残せるのは設計図のみ。
そして演奏家はその設計図から音楽を彫塑する、即ち建築物を構築する。
そして聴き手は出来上がった建築物を眺めてその使い方や意味をイメージする。
要するに音楽の面白さやとりわけ意味を作り出すのは作曲家や演奏家ではなくて聴き手ということだ。従って、音楽に作曲家の思想や人生観を聞き取ろうとするのはナンセンスなのだ。
だから俺はもうバッハやベートーベンの音楽の意味や思想、価値その他の観念を聴こうとは思わない。そこにあるのは音の変化のみ。それを面白いいや面白くないと感じるのは聴き手、俺の勝手なのだ。