天井桟敷日記

「天井桟敷からの風景」姉妹版

ブルックナーの聴き方

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今朝の目覚め、少々早過ぎたので入眠剤代わりにFM録音在庫からブルックナー3番ヤノフスキー×ベルリン放響。重厚長大退屈ブルックナーに入眠期待したが、どういう聴き方をすればいいか考えてしもうて寝落ちせず。

1.報酬を期待しない
よく、マーラーブルックナーが対比されるが俺は半世紀筋金入りのマーラー派。マーラーの音楽には自分の人生経験→喜怒哀楽に響くものがあるが、ブルックナーにはそれを全く感じない。だったらブルックナーには聴楽報酬を期待しないことにしよう。キリスト教信仰がどうしたこうしたブルックナーなどとブルックナーを持ち上げる向きがあるが、それはバッハで十分。ブルックナーの音楽に神はいない。

2.退屈しない工夫をする
報酬を期待しない聴楽は退屈する。まして同じモティーフの繰り返しが多いブルックナーは余計にそうだ。そこで退屈しない工夫が必要。まずは心頭滅却すれば火もまた涼し→退屈しないと思えば退屈しない。それが出来なければ雑念混じり全面で聴く。ブルックナーの聴き方→飽きずに楽しめる方法を考えながら聴くのがその一例。
また、ブルックナーを瞑想ツールと捉えるのもよい。聴きながら湧き上がる想念雑念とマインドトークする、ブルックナーがBGMになってしまうけど。

3.分析的批判的に聴く
ブルックナー退屈の一因は彼の音楽展開の拙さにある。音楽の自然な展開、楽想の合理的変化がないのだ。端的な例がブルックナー休止。下が検索発見した記事のコピペ。

一つの楽想が終わると全休止でぶつ切りにして、唐突に別の楽想が始まるというブルックナー休止が典型です。
 言いたいことをしゃべり終わると、一息ついて、前との関連性は全く示さずに別のことを話し始めるようなものです。
http://blog.goo.ne.jp/chiibou_2007/e/64b3f3b8df11d1f52991726eb6ab983f

モテない男の典型ブルックナー
https://ameblo.jp/kazuosugimori1206/entry-12127969197.html
は、恋愛テクニックも音楽と同様に下手だった。要するに自己中心的だったのだ。
あ、そうか、上記
1.報酬を期待しない
2.退屈しない工夫をする
3.分析的批判的に聴く
は自己中心パートナーとの付き合い方でもあったか、成程。

風景を眺めるように音楽を聴く

バッハのカンタータを1曲、屈折のないキリスト讃歌なれどバッハの味付けはやはりポリフォニーバッハ→これでBCJ巻42終了。
次は先日の富田一樹宝塚ベガ復習。カンタータほどではないがやっぱり抹香臭い。そしてペライア イギリス組曲3番→ガヴォットが聞き応え聞き覚えあり名曲。舞曲集になれば抹香消えて世俗臭。

今週末芸文堀米ゆず子ライブに向けてモーツァルトV nソナタ35番予習→終楽章は変奏曲と気づく。この曲はあと何回か予習しよう。

あとはFM録音消化→クラシックの迷宮、モンテヴェルディをBGMにこの駄文を書いている。今朝は抹香臭い天上から地上に降りてまた昇った。音楽に興奮や癒しを求めるのではなく、風景を淡々と眺めるように音楽を聴きたい。写真は阿寒湖温泉の宿の庭からの阿寒湖と雄阿寒岳

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ジム休み
3:20 第16番『主なる神よ、汝を我らは誉め讃え』BWV16
3:36 前奏曲とフーガ ハ長調BWV547、BWV545、オルガン小曲集BWV641、BWV663
4:07 ペライア イギリス組曲3番ト短調BWV808
4:25 堀米ゆず子予習→モーツァルト35番ト長調KV379 建築物を眺めるように音楽を聴く
4:48 クラシックの迷宮 多民族国家ソ連
肉料理、魚料理、精進料理
5:15 聖母のための夕べの祈りBGM

富田一樹@宝塚ベガホール

当日プログラムを貰うまで演奏曲目不明だったので予習出来ず。
プログラムを撮影したのでここに貼ろうとしても貼れず、なんでやねん、YouTube貼り付けの影響かも。
最初の曲と最後の曲が前奏曲とフーガ ハ長調である等、対称的構成。アンコールはオルガン小曲集から「われ悩みの極みにありて」BWV641。富田の演奏はリズミカル、生き生きしてる、背中しか見えなかったが。

当日演奏されたバッハ作品のSpotifyプレイリストを作って復習所存。BWV663はSpotifyで見つけられなかったのでYouTube貼り付け。

Johann Sebastian Bach: Allein Gott in der Höh sei Ehr BWV 663 - YouTube
宝塚ベガホールは定期的にオルガンコンサートを開催しているのでまた来る。

ルース・スレンチェンスカ

Ruth Slenczynska - YouTube
昨日のNHKニュースで92歳のピアニストが岡山で演奏会→招聘した方が「とにかく、音が違うんです」との話し。そこで今朝はそのピアニスト、ルース・スレンチェンスカシューベルトライブ「楽興の時」「即興曲」など←何歳の時の演奏か不明だが、を聴いた。なるほど、思わせぶりや飾りが全くない。一音一音に重みがある。要するにピュアなのだ。
そこでこれは是非皆様にとYouTube検索→俺のやや鬼門のブラームスを見つけて上に貼った。これもピュア、ただ鬼門ブラームスなのでシューベルトほどは感じなかったのが少々残念。

スレンチェンスカを日本に招聘した方の感動的な記事をリンクしておく。人生、まことに巡り合わせ→運命なり。

超人ピアニスト、20世紀最後の巨匠ルース・スレンチェンスカとの出会い
http://www.liu-mifune-art.jp/expvol1.htm

マイヒーロー

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その一人は富田一樹。今日は彼のオルガンライフ@宝塚ベガ。曲目詳細不明なのでテキトーにバッハ オルガン曲を何曲か聴く。これこそ天界の音楽→感情の表出よりも秩序の形成に主眼を置いた音楽か。音=空気の振動の実体化。

もう一人は藤井聡太四段。彼の連勝騒動に煽られてNHK将棋番組を毎週録画観戦するようになった。旅行したりして5回分録画が溜まっていたけど昨日までで毎日一局ずつ消化してバックログ解消。頭の体操になるし、棋士の表情、仕草などから心の襞を想像したりしている。飽きずに観戦を続けられそうだ。

5回分録画の中に去年の将棋ソフト不正疑惑事件の当事者棋士がいたことを対局観戦後知りウィキで事件の詳細をざらっと読んだ。

 

事件のプロセスの中で多くの棋士が様々な言動をしている、これは相当深い心の傷になったろう。そこに今年の藤井聡太登場。世間の耳目を引いて将棋界面目一新、まさに救世主だったなあ。心の傷が癒えたかどうかはわからないが。

さて、ヒーローといえばダメ虎、今日から敗者復活シリーズ。これも録画して早回し観戦。人を愛しても信じはしないというのがこういう時の我が常套句なり。

 

音楽に意味はあるか

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このところ毎日、モザイクQでモーツァルトを聴いていたのだが、昨日の19番ハ長調KV465不協和音でハイドンセット終了。まだ残り4曲あるではないかと律儀真面目な俺はSpotify検索→ハーゲンQの全集7枚組を見つけた。


弦四だけではなくアイネクライネやディヴェルティメントなども入っている、一生モンだなあこれは。内田光子のPソナタ全集、協奏曲全集と並べてモーツァルトを一生楽しめる。
そこで今朝はハーゲンQ弦四20番ニ長調KV499ホフマイスターハイドンセットとプロシャ王セットとの間に挟まれた一曲。不協和音ほどの名曲ではないので聞き応え劣るも音の遊戯を楽しめる。昨日、不協和音を聴いてて思ったのだが、モーツァルトを聴く楽しみは感情表現ではない。モーツァルトには感情を聞き取るのではなく、なにかしらの音の秩序→音の自律的造形→更には音の遊戯を楽しむのだろうなあ。

音楽に意味も感情もない、あるのは遊戯のみ。如何であろうか、スラットキンさん←俺のだいぶ以前のツイートを参考まで。

 

GM2復活に感激してオケスコアをろくに読めないのにスラットキンに教えを乞い遂には指揮するようになった実業家がいるそうな。スラットキン曰くバーンスタインマーラーも音楽は感情そのもの。我が感情を他人に共有して貰うのが音楽。俺も同根か。
https://twitter.com/doyoubi/status/748237320696934404

懐疑と信仰

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『わがため息、わが涙は』BWV13カンタータBCJ巻42←タイトルからも予想できるように手放し神=イエス讃美のカンタータではない。第2曲アルトのレシタティーヴォの歌詞にも

わが慕いまつる御神はいまだ
甲斐なく呼びかけさせ給い、泣き暮れるこの身に
まだ何も慰めを現わし給いません。
その時はたしかに遠く望めます、
しかしそれでも今はまだ甲斐なく哀願するばかりです。
http://okimideiko.blog.fc2.com/blog-entry-1192.html

と、信仰の甲斐なきを嘆く部分がある。信仰手放し讃美よりもこういう懐疑的カンタータの方が好みだなあ、そういえば「信仰は懐疑なり」と言ったクリスチャンはいなかったけとネット検索。

信仰と懐疑とは互いに相応ずる。それは互いに補(おぎな)い合う。懐疑のないところに真の信仰はない。―「クリストフ・シュレンプフの追悼」―
https://akizukiseijin.wordpress.com/2009/09/16/我が心の詩人―ヘルマン・ヘッセ/

ヘルマン・ヘッセだった。中学生時代に教養目的で「車輪の下」を読んだ記憶はあるが内容は全く空白。そこで更に検索すると

ヘッセは「さまざまな信仰告白の外にあり、間にあり、上にある、破壊することのできない一つの宗教」が存在することを信じていたのである。その際に彼は常に、教義や教説に対しては懐疑的であり続けた。「私はどの宗教も他の宗教と同じように良いと思う。それによって賢者になれないような宗教はないし、また、最も愚かな偶像崇拝だと人に勧められないような宗教もない」と彼は書いている。

https://www.hermann-hesse.de/ja/伝記/宗教

面白そうな人だ。原典を読む気はさらさらないが、何か新書本解説本を読んでみようか、でも、テレビ録画もだいぶ溜まってるし、将棋をもっと勉強したいし、などと鑑賞的人生=自分では将棋を決して指さず対局鑑賞のみの人間は懐疑するのである。