天井桟敷日記

「天井桟敷からの風景」姉妹版

事実を生きて物語を楽しむ

f:id:doyoubi92724169:20170407044037j:image

 

カンタータBCJ巻20に突入したが、正直あんまり面白くない。
Disc20
ライプツィヒ時代1724年のカンタータ
第184番『待ち望し喜びの光よ』BWV184
第173番『高く挙げられし肉と血よ』BWV173
第59番『私を愛する人は、私の言葉を守る』BWV59
第44番『彼らはおまえたちを追放し』BWV44野々下由香里(S) 波多野睦美(A) ゲルト・テュルク(T) ペーター・コーイ(Bs)
録音:2001年9月

俺のマンネリもあるだろうが、バッハのせいにすると、音楽に陰影、起伏、ドラマが乏しいのだ。まあ、教会礼拝という儀式音楽だからしゃあない、否、俺の聴き方がまだまだかも。ただ、BWV44はちょっと面白かった。

 このカンタータは使徒たちの受ける迫害の予言から出発し、そこに述べられた迫害と苦難を描いた後に、神を信ずることによって、これに耐えるように勧めるという内容です。昇天節後、復活節後第6主日の1724年5月21日にライプツィヒで初演されました。
http://okimideiko.blog.fc2.com/blog-entry-186.html

短調の悲しいアリアが聴かせたが、すぐ神の賛美に移ってしまうのが物足りない。

そこで今朝は俺の好きな屁理屈人生方程式。

人生=事実(損得、好き嫌い、善悪、理非)+物語(苦楽、美醜、虚実)
http://doyoubi.hateblo.jp/entry/2017/04/03/065804

阪神が負けた勝ったと騒いでるのは好き嫌い→事実の世界、十分納得しなければ死にたくないと思うのは物語の世界。物語の世界では贖罪論も三位一体も最後の審判もちょっぴりなら信じてもいいと思い始めたが、まだまだ修行が足りない。バッハの神賛美に全然届かないのだから。

だから今のところは、事実を生きて物語を楽しむ。大病でもしない限りは神仏にすがらないだろうけど。

情熱のオルガニスト、冨田一樹

スリリングなコンサートだった。冨田一樹凱旋コンサート。前半を聴いて、情熱的な演奏をする人だなあと思っていたら、後半冒頭のインタビューで磯山雅が「思い切った演奏をしますね」と質問、冨田の答えは「楽譜を読み込んで自分なりのイメージが出来ているから」というもの。

言い古された言葉だが、熱いハートと冷たい頭脳を備えているのだろう。アランやフォクルールやヴァルヒャでたっぷり予習をしていったのだが、そんなスマホ予習では決して味わえないオルガンライブだった。

バッハコンクールでも弾いたパッサカリアを終曲にしていてそれも凄かったが、その前の曲《おお、神の小羊、罪なくして》BWV656が感銘深かった。十字架上のイエスが目に見えるようだった。

冨田一樹、指揮もしたいとのこと。応援させてもらう。

D.ブクステフーデ:プレリュード ト短調 BuxWV149
G.ベーム:《天にいますわれらの父よ》
J.パッヘルベル:《われらが神は堅き砦》
J.S.バッハ:《われら皆一なる神を信ず》 BWV680
      《装いせよ、おお、魂よ》 BWV654
      トッカータとフーガ ヘ長調 BWV540
      プレリュードとフーガ ハ短調 BWV546
      《おお人よ、汝の大いなる罪を嘆け》BWV622
      《深き淵より、われ汝に呼ばわる》BWV686
      《おお、神の小羊、罪なくして》BWV656
      パッサカリア ハ短調 BWV582
http://www.izumihall.jp/schedule/concert.html?cid=1405

 f:id:doyoubi92724169:20170405055929j:image

f:id:doyoubi92724169:20170405055937j:image

f:id:doyoubi92724169:20170405055949j:image

生活の次元、人生の次元

5:02 カンタータBCJ巻18
Disc18
ライプツィヒ時代1724年のカンタータ
第66番『喜べ、心よ。退け、痛みよ』BWV66
第134番『おのがイエスの生きたもう、と知る心は』BWV134
第67番『イエス・キリストを脳裡にとどめよ』BWV67
ロビン・ブレイズ(C-T) 櫻田亮(T) ペーター・コーイ(Bs)
録音:2001年5月

歌詞対訳をネット検索しながら、生活の次元と人生の次元なる言葉反芻しながらひととおり聴く。というのも昨日、ネット検索で遠藤周作の考え方に触れたからだ。

『深い河』が遠藤の遺言的著作だと言う山根氏は、この作品を通して遠藤が次世代に伝えたかったのは、生活と人生の違いだと話した。病気になったり、愛する人を失ったり、「生活の次元」においては苦しいことはたくさんある。しかし、人間にはもう一つの次元があり、それを遠藤は「人生の次元」と名付けた。「生活の次元」での挫折にも、生きる意味を見出す「人生の次元」を小説やエッセイで書き、苦しみを乗り越えて生きるヒントを教えた。
「生活の次元」では医療は治すことが全てだが、「人生の次元」ではホスピスといった考えが出てくる。また、「生活の次元」では死ぬことで全てが終るが、「人生の次元」では死者ともつながり、死後迎えられる世界をも意識する。このような複眼的な2つの価値観を持っていくことを、遠藤は教えているという
http://www.christiantoday.co.jp/articles/16309/20150617/endo-shusaku-inoue-yoji.htm
なるほど便利な複合価値観だなあ。阪神の試合をテレビで観る時は生活の次元、バッハをスマホで聴くのは人生の次元などと使い分ければいいのだ。これを我が得意の人生方程式に当てはめると
人生=生活(損得、好き嫌い、善悪、理非)+人生(苦楽、美醜、虚実)
http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/137526/133272/96004953

となる。生活は死によって途絶えても、人生は終わらない。ここに不滅の魂、誕生。されど諸行無常、永遠も不滅もあらず。

 f:id:doyoubi92724169:20170403065752j:image

たまにはブルックナー

f:id:doyoubi92724169:20170402054734j:image

ブルックナーvsマーラー、俺は圧倒的に猥雑分裂症マーラー派なのだが、FM名演奏ライブラリー/追悼スクロヴァチェフスキで第2楽章のみ放送されたブル7読響が気に入った。立体的明快かつ神々しい。

そこでアップルミュージックを探したらあったあった→退屈せずに全曲聴けた。終楽章もっとエラソーに終わってもいいのにサラッとしたエンディングも好ましい。6歳時にこの曲を聴いてスクロヴァチェフスキ、熱発したとのこと、ロマンチックとは憧れのこと、音楽の美は憧れにあるのだと納得した演奏だった。

8番9番もあるようだからいつかまた。後期ロマン派とは手が切れないねえ。

信じる者は救われる

f:id:doyoubi92724169:20170401055410j:image

カンタータBCJ巻17に突入。
Disc17
ライプツィヒ時代1724年のカンタータ
第153番『ご覧下さい、愛の神よ』BWV153第154番『わが最愛のイエスは失われぬ』BWV154
第73番『主よ、御心のままに、私を定めて下さい』BWV73
第144番『取れ、己が取り分を。そして去れ』BWV144
第181番『軽佻浮薄の霊どもは』BWV188
野々下由香里(S) ロビン・ブレイズ(C-T) ゲルト・テュルク(T) ペーター・コーイ(Bs)録音:2001年3月

バッハの音楽、特に教会カンタータキリスト教信仰と切り離して聴けない。そこで、神=造物主も三位一体も最後の審判もちゃんちゃら可笑しいと考える無神論者たる俺だが、バッハを聴くその場限りのキリスト者になって巻17を聴いた。

ところが、いつも参考にさせて頂いている方の記事でこんなBWV154解説に出会った。

イエスが見失われ、三日後に見いだされたと書かれているのは、十字架と復活を連想させますが、 ここではイエスを見失った信者の絶望と不安、イエスを再び見いだした喜びがテーマとなっています。 人はその罪によってイエスを見る目を覆い隠されてしまうのですが、イエスは自ら人間にその姿を示し、 人の罪をあがなうことによって、再び人がイエスを見ることを可能にしてくださるのです。
http://www.kantate.info/154.htm

なるほどねえ、憎いねえキリスト教。信じられないのはお前の罪のせい。だから主は神の子=キリストをこの世に遣わされて十字架の贖罪を果たされた。それでもわからんのか無神論者よ、という寸法だ。

キリスト教徒として習慣的に教会に通っている人の中にも、時にキリストを見失うことがあるだろう。それは乗り越えて信仰せよ、まさに信じる者は救われるのである。

固有=人間は普遍=神を夢見る

f:id:doyoubi92724169:20170331062646j:image

カンタータBCJ巻16復習
Disc16
ライプツィヒ時代のカンタータ1723年③
第194番『こよなく待ち焦がれた喜びの祝いよ』BWV194 
第119番『主をほめよ、エルサレム』BWV119
野々下由香里,緋田芳江(S) キルステン・ソレク=アヴェラ(A) 櫻田亮(T) ヨッヘン・クプファー(Br) ペーター・コーイ (Bs)録音:1999年10月、2000年11月
どちらも祝祭カンタータ、とりわけBWV119はライプツィヒ市参事会交代式用の曲、トランペットが高らかに鳴りティムパニーが雷鳴のごとく響く。

バッハ=形式美+祈り+祝祭性

祝祭性は余分や、ヘンデルと変わらんやんか、バッハは形式美と祈りだけで十分やと思いつつ冨田一樹凱旋コンサート予習→オルガンに切り替える。最初の曲、G.ベーム:《天にいますわれらの父よ》 で、おお、内省的な音楽や、こういうのが好きやねん俺とわがネクラを改めて実感。

それでもなあ、バッハは雇われ音楽家、雇主参事会のご機嫌を取らんといかんかったんよ。だからゴマスリ祝祭音楽も作らねば。

そうやなあ。

経験=固有(損得、好き嫌い、善悪、理非)+普遍(苦楽、美醜、虚実)

人生=自力(損得、好き嫌い、善悪、理非)+他力(苦楽、美醜、虚実)

人生は、固有が普遍を夢見るプロセス。その普遍の果てが神(他力)なのかもしれない。

バッハが亡くなり、残された妻アンナマグダレーナは市参事会から十分な扱いをされず貧窮のうちに死んだという。実人生はあくまでその人の固有のもの、普遍=神に出会うのは実は幻。あなたは幻の私を愛したのよ。

 

 

 

ご縁は神のはたらき→その場限りのキリスト者

f:id:doyoubi92724169:20170330064607j:image

冨田一樹凱旋コンサート予習→昨日の続き。
プレリュードとフーガ ハ短調 BWV546
《おお人よ、汝の大いなる罪を嘆け》BWV622
《深き淵より、われ汝に呼ばわる》BWV686
《おお、神の小羊、罪なくして》BWV656
パッサカリア ハ短調 BWV582

ポリフォニー→各声部の絡みを聴いていて、ご縁=神のはたらきを感じてしもうた、特にBWV582。
いかん、俺は無神論なのに→今朝の聴楽予定変更。カンタータBCJ巻16復習をやめて、ジムBGM以外で謹聴しようと取り置きしていたショスタコ4番。

FMベストオブクラシックが放送してくれたゲルギエフ×スウェーデン放送響。これが残念、混沌荒廃のまま終了。なんでやねん。

ゲルギエフのせいかなあ←ゲルギエフに今まで気迫感じたことなし。
曲のせいではないだろう、沼尻竜典京響ライブで感じたのだから。
それとも俺の耳がバッハ耳になってもたのか、釈然とせぬままに始まる一日だ。