マラ8千人、生を思い切る覚悟のための音楽
今週末広上京響千人に向けてのリマインド。
無難なところでヤンソンスを聴き始める。
第一部は精霊がどうしたこうした←言わば前奏曲なのでとりあえず聴き流したが、問題は第二部。
歌詞対訳を見つつ聴いても意味理解不十分。そうなんだよな、だからこの曲、いつ聴いても雰囲気的理解→クライマックスの栄光の聖母登場〜神秘の合唱〜フィナーレ←に止まっている。
それではならじと今回は読んでもいない、未来永劫読みもしないファウストを手っ取り早くネット検索。
しかし『ファウスト』を実際読んでみてこれだけはわかりました。マーラー「交響曲第八番」第二部を聞く上でこの本を全部読む必要はありませんが、ストーリーだけでも知ると音楽が更に楽しめるということを。この曲は交響曲といっても大部分が声楽で占める「声楽作品」です。ということは歌詞の意味がわからないと百パーセント楽しめない、という当たり前のことに気が付くわけです。再三《千人の交響曲》はいいぞ!と勧めてきたわりには、私自身歌詞を断片的に理解していただけ。きわめておおざっぱに楽しんできただけでした。
http://ongakuyawa.net/musiker21/mahler01.html
この記事のお陰でファウスト理解した気分になって、ヤンソンス最初から聞き直し始めたが、ショルティ名盤らしいので第二部はショルティに切り換え→断然ダンチ、気迫鬼気入魂名演奏。
歌詞対訳も
http://d.hatena.ne.jp/wagnerianchan/touch/20110601/1306931163
が解説付きでためになる。第二部がどんな過程を経て栄光の聖母登場に至るかを俺なりに理解出来た。
我が好きやねん復活は天上永遠への憧れ音楽、マラ8千人は天上永遠達成した姿の描写音楽。
愚者は月をさす指を見るが、賢者は月を見る。愚者の俺には月は見えぬ、月=天上、神、永遠は見えぬ。だから、月をさす指=マーラーを聴く。マーラーは生を思い切る覚悟のための音楽と思いけり。
カンタータ第70番《目を覚まして祈れ!!》最後の審判に備えよ、最も小さい者は私だ
昨夜のバッハ オルガン全曲演奏会#10の余韻をあたためている。ポリフォニーの饗宴だったなあ、スマホ予習を何度の繰り返してもなかなか耳に馴染まず、ライブ時にああ、ここは聴き覚えあり、があまり無かった。それでも予習した甲斐ありとしておく。ライブのオルガン、あの生き生きした音を退屈せずに浴びられたのだから。
さてカンタータBCJ巻15お勉強。カンタータ第70番《目を覚まして祈れ!祈りて目を覚ましおれ!》
オルガン曲の精巧複雑に比べれば、カンタータは聴きやすい。ポリフォニーといっても主声部+通奏低音+オブリガート程度だから←たまに合唱フーガなんかあるけど。器楽曲は神の探求、宗教曲は会衆向けという相違があると思う。
さて、このカンタータは
この曲はバッハが描いた「最後の審判」として、壮大な響きとバッハ独特の抒情が融合された非常に多彩なカンタータとなっています。
http://bach-kreis-kobe.music.coocan.jp/text/70.html
以前に最後の審判についてイエスは一言も言っていないと書いたが、それは間違い。今回、聴きながらネット検索→マタイ福音書に記述ありと判明した。
「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
http://blogs.yahoo.co.jp/tatsuhiroiwamoto/33263822.html
キリスト再臨時に善行を施したか否かによって、天国行きと地獄行きに振り分けられる。キリスト教徒、仏教徒その他に関わらず全人類が←おお、恐ろしい。
でも、安心しなさい。心は正しくても肉体は弱い←このカンタータにこのような歌詞あり。他人に施すよりは自分が食うのが先→君が罪人だということはキリストはよく分かっている。キリストの愛が君を救う。だからキリストを信じよ。
こういう信仰がキリスト教だ。半ば脅迫ではあるが、それは愛でもある。そして釜ヶ崎の福音者→本田哲郎によれば
【マタイ福音書二五章40節】本田哲郎訳
わたしの身内であるこのいちばん小さくされている者の一人にしたのはわたしにしたのである
イエスは施しをする側ではなく、施しを受ける側にいる。炊き出しを受ける列にイエスは並んでいるのだ。
http://ameblo.jp/jamannzu/entry-12069255775.html
我が日記も参照。
http://doyoubi.hateblo.jp/entry/2017/03/11/053920
最後の審判を半分ぐらい信じてなるべく善行して日々楽しもう、最期の日まで。
死の恐怖克服カンタータだが残念
カンタータBCJ巻15→第60番『おお、永遠、汝、雷の言葉よ』BWV60。
面白いカンタータである。
当日の福音社の章句は、イエスが死んだ少女を蘇らせた挿話ですが、カンタータではその内容を直接扱ってはいません。それほどの信仰を持ちきれずに死を恐れる「恐れ」に対し、主を信じて救いを待つ「希望」が語りかけ、最後には「恐れ」にも希望がもたらされるというストーリーになっています。
なお終曲のコラールはアルバン・ベルクの「白鳥の歌」ヴァイオリン協奏曲に引用されています。
http://okimideiko.blog.fc2.com/blog-entry-753.html?sp
死の恐怖を克服してくれるのかあと期待しながら何度も聴いたのだが、全く納得出来なかったなあ残念。上のリンクに訳詞があるが、恐怖と希望の対話はバス=キリストが出て来て「主に結ばれて死ぬ人は幸いである。」と何度か言うと恐怖が折れてしまい、最後はコラールで幕を閉じてしまう。
満足しています。
主よ、御心に叶うなら、
どうかわたしを解き放ってください。
わたしのイエスがおいでになる、
いざさらば、おお、この世よ。
わたしは天の家をめざし、
たしかに平安のうちに参ります、
わたしの大きな不幸は下界に置いたまま。
満足しています。
なんやあ結局は、信じる者は救われるやんかあ。全く論理的、説得的ではない。残念。
残念ついでに、上のリンクにあるベルクのバイオリン協奏曲YouTubeを聴いたら、コラールも聴き取れんかった、責任者出て来い。
平均律巻2グールド×昨夜ヨハネ反芻
平均律巻2×昨夜ヨハネ夙川教会反芻。
ライブはいい、演奏者の顔が見える、通奏低音→オルガンを核に合唱が分厚く聴こえた。
第2部からヴィオラダガンバが参加→成し遂げられたアリア痺れた、ライブでヴィオラダガンバ初体験。福音記者もイエスも若いソリスト熱演。
教会で聴く受難曲、時々、マリア像と十字架のイエスを見ながら最前列感銘。固い椅子に今回はクッションが引いてあったので助かった。
テレマン協会後援会ロンド会員4千円年額はお得、招待券1枚と入場料20%引きで元が取れる。
日本テレマン協会 第184回 教会音楽シリーズ「ヨハネ受難曲」
指揮/延原武春 イエス/高曲伸和 福音史家/鹿岡晃紀 ソプラノ/渡辺有香 カウンターテノール/上杉清仁 テノール/小川 歩 バリトン/林 康宏 合唱/テレマン室内合唱団 管弦楽/テレマン室内オーケストラ(バロック楽器) 曲目:J. S. バッハ/ヨハネ受難曲 入場料:¥¥3,000/当日¥3,500 問い合わせ:日本テレマン協会(06-6345-1046)
言葉を信じる宗教、信じない宗教
カンタータBCJ、巻15に進み第40番『神の子が現れたのは』BWV40 。
クリスマスに歌われるカンタータ。神の子=キリストがこの世に現れた理由、喜びを歌う。
キリスト教が凄いのは神の子が身を低くして人間の姿を纏って現れたという物語を持っていることだ←そんなことはイエスは一言も語っていないのに。
そのイエスを十字架上で殺せと人間は叫んだのに、イエスは「神よ許されよ、彼らは何をしているか知らないのです」と言われた。神の子が地上に受肉されただけでも凄いのに、アホな人間を許してくれる、これ以上の愛があろうか、信じよ神を。
いやあ、そんなアホらしい物語を信じられるか。仏教では愛は執着=煩悩、煩悩から脱すれば苦しみな無くなる。つまり、人間が人間で無くなる事を目指すのが仏教、神が人間になられたのを信じるのがキリスト教ということだ。
ところでこのカンタータ、こんな歌詞がある。
1.合唱
地に 来ませり 神の み子
悪魔の わざ 毀(こぼ)たんとて
(第1ヨハネ3:8)
2.レチタティーヴォ (テノール)
言葉は 肉と なりて 世に 来たり
照らす 地の 上を
神の み子は
くだりたもう
高き み座(ざ)を 捨て
小さき 人の子と なりぬ
思いてみよ この みわざを
尊き 主 しもべに
身を 変えたもうなり
人の 世に あらわる
おお いかに 甘き 言葉
救い 慰めは
http://www.ab.auone-net.jp/~bach/bwv040.htm
「言葉は 肉と なりて 世に 来たり」はヨハネ福音書冒頭「初めに言葉ありき、 言葉は神と共にありき、 言葉は神であった」を思い起こさせてくれた。言葉が受肉した事を実感させてくれたカンタータだ。禅では不立文字を第一とするが、ここでも仏教とキリスト教はベクトルが逆方向。どちらも両極端ということか。